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ブログ  精神分析家の徒然草 

《神輿》徒然草-117

私が世俗のことで、一度も全く関わりを持たなかった行事がある。それは祭りの神輿を担いで意味の判らない掛け声を張り上げて、肩に喰い込む担ぎ棒を手で掴み、町内に叫喚と共に威勢を振り撒く、ファナティックに参加した事がない。

それは、そのファナティシズムに共感も理解もしたことがないからで、祭りに参加して熱く乱舞している姿に意味を見い出せないからである。神輿を担いで男気を見せつけ、雄叫びを上げる人々が見ているものに興味すら抱かない私は、祭りのさ中の人達から見れば、憫れな人としか映らないであろう。



彼らの熱狂を羨ましいとも思わない。所謂何もそこに見出さないのである。なのに、何故祭りについて語るかといえば、矢張り三島由紀夫氏のエッセイにある。

三島氏は文学青年から、自らの肉体に筋肉の鎧をまとうことを知って行動する人になってから、祭りの狂騒にすべての力を注ぎ込む若者達の汗を見た時、彼らが見ているものが何かに興味を持ち、それを知りたくなって一緒に声を張り上げて一心同体の境地に至り、見たものは青空だった、と書にあるのを読んだことがある。



三島氏は神輿を通して共同体幻想を体験し、自らの肉体に目覚め、行動する人間に成った。私はといえば、その体験が無いために、未だ思索する人に留まっている。社会で生きた実感がないのは、この共同体という幻想を一度も味わったことのないことに由来する。

社会及び、社会の人々と連帯を組むことは全くした事のない私に出来ることは、個人の想いを汲み取ることである。孤独と孤立に生きる一人ぼっちの淋しい人達の話し相手となり、よき理解者になるには、相応しいパーソナリティーであったのだ。それ故、三十年以上聴き続けているのだ。

 

精神分析家 蘇廻成輪

 

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