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ブログ  精神分析家の徒然草 

《 居候 》徒然草-160

朝起きて、洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、何か納得出来ない、判然としない不明瞭な意識を持つことがある。要するに、鏡に映る顔を見て、それが「私」だという認識を持つことが出来ない。所謂アイデンティティーが生じないということである。違和感を超えて、人間はどうしてこんな造形をしなければならないのか、もっと違った形でもいいのではないかという、不思議な想いである。

あらゆる生物は、自由に好き勝手な生き方を、適者生存の法則に従い生態を保持している。空を飛び、川や海で泳ぎ、地を走り回り、山をかけ登って、あらゆる場所で、どんなに険しく、厳しい気候の許で、生物は生きている、自分の形にこだわらず、違和感を持たず。



鳥や蝶などの色彩感覚は、人間界のあらゆる造形・色彩で創り出した芸術作品をはるかに超えている。鏡に映してデッサンしたり、試行錯誤の末に見い出した形や色彩でもないのに、どうしてあの様な線と色が描けるのか、全く考えも及ばない、美的センスである。

人間が人間としての形を造作できるのは、ボディービルぐらいである。肉体美というより、筋肉体型でしかない。それが美かどうかは各個人の規定であり、絶対美が存在する訳ではない。

理想的な、生物としての人間の形が今のホモサピエンスの形になるのか、そこには適応して来た結果としての進化があるだけで「人間の形」の完成形ではない。



宇宙人の想像図が示すように、異様な手足に成形されている。飽くまで、それは人類を基本にしただけで、宇宙人から見れば人類も唯の「変な宇宙人」でしかない筈。人殺しの戦争で飽き足らず、今度は貿易戦争までしかけて、世界は混乱している。

穏やかに平和に暮らす事が、どうして人間は出来ないのであろうか、じっと静かに大人しく生きてはならないのだろうか。人間は地球の居候なのに。

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