劣等感を克服する方法!社会的問題として捉えた劣等感について解説
実は人間というのは根本的には意味がなく、それを敢えて意味付けていかなければならない存在です。
基本的に優劣が発生するのは社会の中だけで、プライベートな世界に優劣はありません。自分がしたいことをしている世界にあるのは、楽しいかつまらないかのいずれかです。しかし、社会にあるのは出来るか出来ないかです。
社会には「高得点を取ることがいい」「敏感な方がいい」など<社会が求める理想のモデル>が存在し、それが人間の評価を決めてしまっています。モデル通りの人は「勉強ができるいい子」や「流行に敏感なセンスのいい人」で、それ以外の人は「馬鹿な奴」や「不細工でダサい奴」など、悪で劣等とされてしまいます。
そもそも比べなければ劣等感は生まれないのですが、社会は比較することを私たちに教えました。
そこから離れて比べなくなるにはどうしたらいいのでしょうか?
本記事では、劣等感を克服する方法として、どうしたら比べなくなるかに焦点を当てています。
目次
- ○ 劣等感克服のために知っておきたいこと
- ・意図的に作り出された劣等感の具体例
- ○ 劣等感を克服する方法
- ・肉体(生命)は比べられるのか?
- ・精神(思考)は比べられるのか?
- ・人間の価値は比べられるのか?
- ○ まとめ
劣等感克服のために知っておきたいこと
劣等感を作る基本は、まず対立する二つの文字(高低、大小、遅速など)を作ることです。この同一項目で比べるということを社会が教えます。
子供は、高い所に上った方が勝ち、高い成績を取った方が優秀など「誰よりも高く!」ということを、遊びを通しても義務教育を通しても学びます。
高低の次は大小を競います。
では、社会はどうして同一項目の中で比べるということと、劣等感を教えるのでしょうか?
その答えは、競争させるためです。
「平和な幸せな人は何も作らない」という格言があります。幸せな人は何もしません。幸せなのだから。ところが、貧しい人は豊かになりたいから働きます。働くということは産業が振興します。資本主義社会は文明を向上させなければなりません。それには劣等感を植え付け、競争させて稼がせることです。劣等感は人間の原動力になるので、社会は意図的にこれを作り出すのです。
意図的に作り出された劣等感の具体例
お金持ちの多くは豪邸を建てますが、これは社会が植え付けた優越感の文字です。高いこと大きいことはいいことだということで、どんどん高く大きくなっていきます。高く大きくが膨らめば膨らむほど消費は伸びます。
そして、一部の富裕層が出来れば出来るほど庶民は劣等感を持ちます。するとささやかな幸せを求めて自分たちの消費社会を企業が形成してくれます。だから消耗品をたくさん作ります。少しでも富裕層の足元に届こうと真似事をして、この劣等感というものが購買意欲に繋がる構造を見事に作れます。
流行も意図的に作り出されるものです。流行を作れないと社会の経済は回らないからです。ヒット商品が作れず大量消費ができないからです。
社会は流行に疎い人を劣等に仕立て上げ、「ダサい」という表現でこき下ろし、「流行に乗りなさい」と言って煽ります。
売る側も「あなたはあなたのそれで合っている」とは言えません。そうでないと買ってもらえないからです。だからこう言います。「今そんなの着ている人いないですよ」と。最後に「恥ずかしいですよ」までくっつけます。
こうして私たちは煽動されて消費社会に組み込まれています。それも全部劣等感が原動力です。流行遅れとバカにされて、私はそれでいいんだと開き直るには相当勇気がいります。
現実の側面から、実はほとんどの劣等感は、このように社会で捏造された劣等感なのです。
劣等感を克服するには、まずこういう社会に身を置いているということに、気付かなければなりません。
劣等感を克服する方法
社会が勝手に作り出した理想のモデルを、私たちは無意識の内に刻まれ続けています。社会は勉強ができる子が立派だと、人格とイコールにまでしてしまっています。
社会は私たちに比べることを覚えさせました。
しかし、人間は精神(思考)と肉体(生命)の混合物です。正式な劣等感であるならば、この項目をそれぞれ比べなければなりません。
肉体(生命)は比べられるのか?
私たちが最初に比べられたのは何かを思い出してみると、多くは兄弟姉妹でしょう。これが兄と妹だったり姉と弟だったりした場合は、性差による比べです。
性差といえば日本の文化に深く根差した言葉に、男尊女卑という言葉があります。私たちが比べるという概念を作ったのではなく、社会というものが形成され、長い時間をかけて男尊女卑が確立しています。
私たちは生まれた時から、あるいはお腹の中にいる時から、比べられているということです。
しかし、男尊女卑という言葉がなければ、性差もなければ、人間は生命としては一つです。生きとし生けるものは生命としては一つであり、人間の性差を超えて人間というのはみんな同じです。
同じであるということは、肉体(生命)は比べようがないということです。
精神(思考)は比べられるのか?
では精神(思考)はどうでしょうか?
社会は個性を消し去って、ただ物を消費するだけの消費者を作りました。ここには個性も考える人という規定もありません。
しかし、思考においては実は同一思考は存在しません。全てが個性なので、比べようがありません。
比べるからには絶対にイコールコンディションであり、同じ条件でなければ比べたことにはならないからです。
人間の価値は比べられるのか?
肉体(生命)は同等なので比べようがなく、精神(思考)は一人一人個性的で全て個人の所有だから比べようがありません。どちらも比べられないということは、人間の価値は比べられないということです。
こうして比べようがないという認識を持つことで、比べることから離れることが出来ます。比べなければ劣等感は生まれないので、劣等感を克服する方法の一つは比べないことです。
人間は比べられないという認識を持たない限り、私たちは比べてしまいます。そして、劣等感に苛まれます。
まとめ
比べなければ劣等感は生まれないのですが、社会は比較することを私たちに覚えさせました。私たちは「比較しなさい!」ということを教育され抜きました。
この私たちが比べることから離れるには、
1.社会が求める理想のモデルは通用しないとして離れる。
2.人間は比べようのない存在であり、一人一人が尊いんだという認識を持つ。
3.人間本来を見れば比べるものはないとして比べることから離れる。
男尊女卑という文化概念に支えられ、社会が求めるモデル像が、比較することへと持って行きます。そこにいる限りは劣等感から逃れることができないということを、しっかりと自分の心に言い聞かせてみてください。
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