《棕櫚》徒然草-140
1960年代の夏休みは、30℃超えは数えるくらいしかなく、過ごし易い夏だった子供の頃、今の暑さははるかに超えて、灼熱地獄と化している。生存が危ぶまれるほどの猛暑が通常になった現在、どうにかして生き延びる術をみつけるしかない絶体絶命の逃げようのない窮地に立たされている。
子供の頃は、周囲10㎞ほどの空間が生活のすべてであり、それが地球の広さだった。体も四季に合わせて難無く、自然に楽に生きていられた。ところが今は、一日一日の最高気温の一度上昇や下降に一喜一憂しながら生きている。そこに人生の生き甲斐も楽しみも、生きる意味さえ無効にされるほど、暑い毎日が続いている。
高温は集中をそぐ。特に思考力を奪う。そして行動への意欲も奪い、気力を失わせる。特に私の住んでいる所は日本一の最高気温を記録したK市故に、尚更暑さは尋常ではなく、外に出られない。
この暑さが、ひょっとしたら三十年の悲願である、ヨーロッパ並みの一ヵ月のヴァカンスが、来年こそ猛暑を理由に取れそうである。ヨーロッパの精神分析家は、一ヵ月休暇をとってクライアントを放ったらかしてしまう。
週一回のセラピーを基本とする精神分析において、一ヵ月のインターバルは、有り得ないことだが、ヨーロッパの文化と習慣は、それを許容してしまう。分析家とクライアントの信頼と絆があれば空白の一ヵ月は可能である。
クライアントにとって沈黙の一ヵ月は、成熟と成長の時になる。そう、ヴァレリーの『棕櫚』の詩が語っている。