《死の島》徒然草-132
樹木の内に秘めたその能力は、人智の及ぶところではないことを知りつつも、その不可思議さに、この世の、そしてこの地球の、そしてそこに生きとし生けるすべての生物の命の営みに、唯々愕然とする。植物すら対話して、相互に扶助して森を形成している。生命は様々な形で地球上に生息しているが、その生命のメカニズムは解明されていない。
とまれ、関東の桜が咲き終わった後、1ヵ月ほど遅れ那須の桜が満開となり、森は緑の色に様変わりし、木々は喜びに溢れているかの様に葉を広げ、太陽を反射させて輝き出す。川も清流となり、山は白い雪肌を灰色に染めながら、那須は生命の輝きに溢れる。
そんな那須に事件が起きた。上野の実業家夫婦が那須町の伊王野辺りの川原で焼死体となって発見された。定かではないが、伊王野であるならば、詩涌碑庵からさほど遠くない所である。そんな慣れ親しんでいる地に遺棄するなどとは言語道断である。
被害者は「宝島」という。宝島から那須に流刑されたのだ。流竄(るざん)の身ではなく、東京から百数十km離れた、事もあろうに、御用邸もある神聖なサンクチュアリに不敬極まりない野蛮で冷酷無比な残虐行為を私利私欲の為にした事は、人間として認知でもない、異人のなせる術である。
宝島の苗字は、お金がお宝で世間からかき集めよ、との文字の要請に従って金儲けに走るのは勝手だが、人として、如何なものかの反省も虚しく、宝島に住んでいると思ったら、そこは死の島だったとは、何たる皮肉。
生命は殺し合うためにこの世に存在するのではなく、扶け合って育んでいくもの。那須の自然は、人間に呼びかけている。自然の中に生かされていることを忘れるなと。