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ブログ  精神分析家の徒然草 

《私の記憶》徒然草-116

齢を重ねるごとに「あれ、今何をしようとしていたのか」と寸前まで意識していた事が、消えてしまう時が多くなる。短期記憶どころか、今が消えてしまうのだ。

年をとる事は何と悍ましいことだと思う瞬間である。体力は自らの意志と継続である程度維持は出来ても、思考や記憶、気力の保持と持続の能力は、いかんとも鍛えようがない。

忘れた、いや飛んで行ってしまった意識は、意識したその地点に戻って、時間を巻き戻し、意識を手繰り掴まえる。そしてそれを行動化する。辛うじてこれで、途切れた時間が繋がる。寸断された人生が回復する。



忘れたい記憶や、捨ててしまいたい想いや意識はいくらでも持ち合わせている。しかし、幸せな想いや、楽しかった記憶、感動した至福の時や場面は、何故か薄れて忘却の彼方へと去っていく。どうして心の中に留めて置けないのだろうか、と我が心の不条理を嘆かざるを得ない。

セラピーをしていて、クライアントが語る総べては、恨み、悔恨、怒り、嘆き、辛さ、悲しみしかなく、喜びや幸せな時など語った分析場面は、三十年以上セラピーしているが、一度も聴いたことがない。人はどうしてこれほど悲しい存在なのかという想いを、三十年以上抱き続けている。



その語りの総べては、紙上にもPCにも、何処にも記録されてない。私はセラピーの初期数年は記録していたが、いつしかそれを止め、全て頭の中に記録するようになった。爾来二十数年の分析記録は、全クライアントが私の脳の記憶の中に在る。

その記録は、永遠に私の記憶から漏洩することはない。クライアントの心は、分析された言語に置換され、時空を超えて、生きている。それはまるで遺伝子が種を存続させていくように、私はクライアントの心を遺伝子に変換して未来へ引き渡す。これを永遠の生命というのだ。

 

精神分析家 蘇廻成輪

 

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