ラカン理論で解く「強迫神経症」数を数える理由や、治す文字について
また、強迫神経症のもとには「キレイ」「汚い」があります。
強迫神経症は0か100かです。実は、強迫神経症の人は100を「○○」という文字に、0を「○○○」という文字に置き換えています。その文字を書き換えれば、強迫神経症は楽になります。
目次
強迫神経症になる人が作れない概念
自由になるということは「自由」という文字を選べばいいのですが、掟に従え・法を守れという遵守という言葉が自由の下にあります。「自由」と「法を守る」は対立します。
このように、人間は矛盾・葛藤の最中に居ます。元々こんな構造自身が既に分裂病です。だから、分裂病を生きているのが人間なのです。
この二項対立から始まった、相反する言語の矛盾の統一・統合、統合とはどちらも否定しないという能力のことです。自由だけを取ると遵法精神は否定されます。矛盾した相対立するこの文字をどちらも否定しないということが、統合の意味です。
しかし、人は意味で考えます。どちらも否定しないで抱えるということは、矛盾しているので出来ません。だから、統合された人間が居ないのです。
問題は、統合した人はどうしているかです。元々自由と遵法という相矛盾する言葉、互いが互いを否定し合う構造の文字を同時に抱えている状況を矛盾と言います。ということは、この矛盾から自由になるためには、矛盾を否定して新たな文字を作ればいいのです。そうすれば統合した人間になれます。矛盾を抹消して新たな文字を設立すれば、統合へと向かうことができます。その新たな文字とは「両立」です。排斥し合わない言語に書き換えてしまう、これが矛盾しないという構造です。
「両立」と「共存」の違い
元々敵味方で喧嘩する相手だから、共存はできません。共存というのは共に存在します。私が言っているのはどちらかが優先を取れるというだけです。共に立っているのだが、その時によってどちらかが出るという、これを両立と言います。
共存とは共に在るということです。しかし、この二人は共に在ることはできません、同時には。ただ両立はできます。これもいいでしょ、いやこちらもいいでしょと。ただし、共存はしません。どちらかがどちらの時かによって優勢を取ります。
清潔恐怖症
一人の人間の中で相反するものが同時には存在できませんが、両立は可能です。時に従う時もあっていい、いや時に自由でもいいではないか、だから私の中で矛盾しないわけです。両立していれば矛盾はありません。これを統合といいます。
しかし、この両立という概念を作れないと葛藤します。これが強迫神経症になります。常に自由でいなければ、いや常に遵法でなければならないといったら強迫神経症です。すなわち、「キレイ」と「汚い」の対立が両立しなければ、全部きれいにしたいか全部ゴミ屋敷になるか、どちらかです。
きれいに全部したい、これは家の中を全部クリーニングするといったら大変です。しかし、台所や寝室は清潔にして後はいいかなというのは、きれいな所とあまりそうでない所とが両立しています。これが偏って両立を許さない、一方でしか存在しないとしたら清潔恐怖症になってしまいます。きれいでないと気が済まないか、全く放棄してゴミ屋敷になってしまうかです。
強迫神経症と数字
強迫神経症は0か100かです。全てか無かです。この0か100かはある漢字の置き換えです。我々は常に数学を言語に直しています。そして言語を数字にしています。言語を数字にしたのが強迫神経症です。「キレイ」「汚い」を0と100に置き換えたのが強迫神経症です。
強迫神経症は「キレイ」「汚い」がもとにあります。汚いというのを全部0にする、その暁に100というきれいが生まれるのであって、きれいにしているわけではありません。汚いという100を限りなく0にしているのです。
文字を数字にする人が強迫神経症です。だから、強迫神経症の人は数えるのです。駅の階段を上っても数えてしまうのです。
強迫神経症を支えている概念
100と0という数字を文字に換言すると、「100」は「一致」、「0」は「不一致」となります。一致か不一致かということで考えると、この人が考えるのは100しかありません。ということは99も不一致に入ってしまいます。これを完全主義や完璧主義と言っただけで、あるのは数字的な一致感なのです。自分が考えているイメージを完璧主義者は100と置きます。だから人が「あなたは99点取ったんだからほぼ100に見做していいではないか」と言っても、完璧主義者は見做しません。
この一致と不一致こそ強迫神経症です。斯様に人間は自分を自分で規定するのです。必ず比較参照項を持っているということです。美人の基準、頭の良さの基準、仕事が出来る基準、行動力の基準、あらゆる基準数値を持っています。その数値が全て100の人が強迫神経症なのです。これを称して完璧主義者と言っただけです。一つ一つ捉えると完全主義者になります。だから根幹をなす、強迫神経症を支えている概念というのは一致と不一致なのです。
人間は本当にラカンの言う通り自己規定を強迫観念として持っています。自らの意味に従って生きています。だから、たった1でも不一致には変わりありません。0点だろうと10点だろうと99点だろうと、この人にとっては一緒なのです。
強迫神経症を治すには?
この数字を持ってない人は幸せです。一致も不一致もないからこんなもんでいいかという、そこそこでいいということで落ち着きます。
では、強迫神経症を治癒するためには、この一致と不一致の文字をどのように書き換えればいいのでしょうか。
70点主義でいいではないかと、そこまで満たせばいいではないかという、数字で置き換えればこういう捉え方が一つあるのですが、言語で言うならばこの一致、不一致を次の文字に書き換えれば楽になります。
一致と不一致という二分法から抜け出すには、曖昧にすればいいのです。曖昧な概念を導入すればいいのです。一致と不一致の文字を「優良可」という文字に置き換えれば、これは非常に幅があります。これを曖昧と言います。
【関連コラム】
⇨ ラカンの鏡像段階をわかりやすく解説
⇨ 人間とは何か? 答えはここにある|ラカンの精神科学