Blog

ブログ  コラム 

フロイトの「エスが語る」動物と人間の間にあるもの

動物と人の一線を画すものは何でしょうか? 人間と動物を分けるのは言語を使用するかしないかです。もう一つは、生物学的なものはイコールで、これに差異はありません。子孫を残していくという一つの生物の種としては同一です。人間は生物としては動物と同じ種なのですが、案外この自覚がありません。

人と動物の境界線に「エス」という言葉を入れると、エスという欲動の定義では、人と動物は不分明になります。これは人と動物の見境がなくなります。一般心理学では本能や性欲という言葉で片付けてしまうのですが、フロイトとラカンはエスという言葉で動物という領域にギリギリ迫りました。するとここはもう境界線がありません。その自覚を心理学は排除してしまいます。その先に行けないのです。というのは表現する言語がないからです。即ち、エスは象徴化出来ない対象なのです。欲動・エスという表現でしかそれは表し得ないものです。

ところがフロイトは「エスは語る」と言っています。「エス」は本来動物の領域では「本能」と言うべき言葉です。人間の領域では「欲動」と言います。動物と人間の間にあるのはエスです。ここだけがシンクロしているところです。この領域をしっかりと自覚させるための定義を「エス」と言いました。人間はこれを抱えています。即ち、ラカンは言語で説明しながらも、言語を排除している世界があるということを言っています。弁証法でありながらも言語で表せない領域を持っていることを人間は自覚しているかどうかです。語る動物なのに、知性と象徴界が語っているとは言わないで、フロイトはエスが語ると言っています。実は大文字のAが語っているのではないのです。

目次

なぜフロイトはエスが語ると言ったのか?

では何故エスが語るというのでしょうか。欲動と本能がシンクロしている領域を一歩出るならば、本能と象徴界の境界線で語りが始まるとすると、限りなく語りの原点はエスに近いということです。これに接触して語るのと、ここから離れたところから語りが始まるのでは、全く意味が違います。フロイトはこの空白はないと言っているからエスが語ると言いました。

動物を排除するために人間がしたこと

エスには想像界を作り出す能力はあっても、象徴的世界を構築する機能も働きも何もありません。もしエスに言語能力があったら、人の生殖器を見た途端に言語があれば、グロテスクで接近しないでしょう。事実この空白を持った人が居ます。それは去勢不安の男性です。妻が出産した後それを見たらもう出来なくなったという話があります。動物のエスで見る限り、それはグロテスクでも何でもなく、ただそういうものでしかないはずです。それが去勢の跡に見えるというのはエスが語っているのではありません。象徴的言語世界が語っています。ということは、その人はこの空白の間隙を作ったということです。エスそのものが語るならば、本能や欲動と言われているように、言語介入がないということを言っています。言語介入があるということは意味が発生するということです。それを見た途端意味が発生するということです。それ自身エスと象徴界が分離している証拠になってしまいます。ということは、エスと言葉の間にAがあることになります。

このAをどこに置くかは非常に大きな問題だと私は思います。もしこれをエスと語りの間に挟み込めばAが語るので、エスが語る欲動というものには至り得ません。ならば人間は絶滅するでしょう。意味だけで見てそこが美しいという意味を作れる人が何人いるかという話です。

我々は動物というものを排除するために、動物と人間の間にAという文字を差し挟みました。これが文化です。儀式化、お祭化、文化化して、そうして辛うじてこのエスを導入しています。そういう言い逃れをしたのが人間です。この言い逃れの文化を外したのがフロイトとラカンです。エスと語りを繋げたのです。だからこのエスが語るという発見はノーベル賞以上のものです。エスが語るというふうに変えたのです。それまではAが語っていたと思い込んでいました。それは人間を動物界から絶対的に切り離す弁証法でしかありません。その概念は肉体を切り捨てたに等しいのです。人間が肉体を持っている限り、一種の哺乳類という動物であることは免れません。これを排除しているということは、正に肉体との間にAが入っています。これが法です。これこそタブーの概念です。

エスには秩序も法則もない

この切り離しが、アンダーグラウンドの性の世界を作ります。ここを暴いたのがサド侯爵です。正に抑圧された、切り離した、遮断した、もしくは切り取って剥奪してしまったこの空白を埋めたのがサド侯爵です。人間の中に潜むエスというものが語り出すととんでもない語りになると、これをサディスト・マゾヒストという言葉を作る、苦痛が快楽になるという、あのサド侯爵の世界が現れたのです。

動物は決して苦痛が快楽ではありません。縛られて喜んでいる猿を見たことがありますか? 引っ掻かれて叩かれてキャッキャ言っている猿を見たこともないですし、「もっと鞭打って」という猿を見たこともないでしょう。猿に性倒錯はないのです。

人間はそこに少し違った世界を作り出してしまいました。それは言語介入が起きたために、意味の介入が起きたために混乱を来したということです。その秩序が乱れたというべきです。ということはエスに秩序はないということです。もう一つ、エスに法則はありません。我々が気付けない深い部分では途轍もない何かを抱えているのが人間です。この自覚をさせてくれたのがエスの理論です。

フロイトがアインシュタインに言いたかったこと

最終的にはエスの中にはエロスだけではなくて二つあるんだと、タナトスがあるということを明らかにしたのがフロイトです。エロスとタナトスの二つの欲動を人間は持っているという構造が見えてきたのです。エロスだけだったら問題はありません。

因みに動物は二つを所有しているのでしょうか? それとも一つでしょうか? 当然ながらエロス一つです。タナトスだとしたらみんな自殺して種が絶滅しているからです。

人間は両方の相反する欲動があるために、子供を作るし自殺もするということです。それをアインシュタインに突き付けたのがフロイトです。人間はタナトスという死の欲動(死にたいという欲動)がある限り戦争は終わらないんだと、核の廃絶云々ではないんだと、こうフロイトはアインシュタインに言いたかったのです。このエロスとタナトスという二つの欲動が語っているということは、言語化しているということは、行動化しているということを言いたかったのです。即ち行動の原因である動機を形成していると、そこまでは言いたかったのです。

まとめ

このように人間と動物の間を見ていくと、しっかりと見えてくるものがあります。エスというものは実はエロスとタナトスの二つあるというところに、二分法に至ったのがフロイトです。ここから全ての論及が始まります。ここから全て人間の精神の構築が始まるとフロイトは説きました。

SHAREシェアする

一覧

HOME> >フロイトの「エスが語る」動物と人間の間にあるもの