《 リアリティー 》徒然草-173

人と人とが顔をつき合わせて会話するには、決められた時間に決められた場所に出向かなければならない。車や交通機関を使い、時間とお金を使って行動しなければならない。大変な労力がいる。
ところがネットやPC、スマートフォンでメールやビデオ電話のリモートを使えば、一瞬にしてタダで会えて、会話できる。そこに欠けてるのは、生身である。声も映像もある。無いのは、温もりである。冷たいモニターの画面があるだけ。

生身の人間と会って会話すれば、温もりや息吹が伝わってくる。所謂実感がある。欠けているのは、リアリティーである。
しかし、今の人達は、必ずしもリアリティーを必要としていない。それは、確実に会っても、会話しても、その場に集中しない。いつも携帯を気にし、メールを打ったり、手許に置き、心は半分上の空。今ここに居ない。ならば、会う意味も必要性も半減する。
既に映像文化のアニメ、漫画、映画やTVが普及した段階で、三次元に代わって、二次元で事足りるような社会構造になってしまった。その象徴がペーパーレスである。これにお札も含まれ、現金はデータになってしまった。

いつか、現金は社会から消える。今や半数以上の場で現金は扱われなくなっている。警察ですらそうである。
役所の登録は番号になり、紙はなくなり、名前もなくなり、直筆のサインもいずれ無くなり、国民はすべて番号で管理され、データだけが自己の存在の証になり、生身の人間は病院だけになる。しかし、それすら医者は患者の体に一度も触れることなく検査し、病名を決める。
肉体も一つのデータで、生身であって生身の実感もなく、オペすらロボットがするようになったら、人間とは一体何者なのか。ただの生き物でしかなくなる日は、そう遠くない。