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ブログ  精神分析家の徒然草 

《 彷徨 》徒然草-168

誕生日が来る毎に想うことがある。それは他者から「おめでとう」と言われた時、「何が」という問いが生じる。そもそも自分自身が、自分で生きていられることをめでたいと思った事は一度もない。なのに、おめでとうと言われてもピンと来ない。

別にその日だけが特別な日ではなく、冥土の旅の一里塚の通過点でしかない。なのに、それがめでたいのか、と言い返したくなる。

一般的通年としては、生まれて来た事を良しとし、人として生まれて来た事を共に喜び祝おうではないかという意義付けの日とし、新たな心で次の一年に向おうという、更生の精神の表れと受け取ればいい。



楽しい一年が待っていると思えばめでたい。しかし、一里塚としか見えなければ貧しい一年となる。その様に、人生を一年一年区切るために誕生日を意義付けることは、単なる形式ではなく、意味が生まれる限りにおいて、生まれて来た日を記念日として登録することは、文化になる。

それを定式化するために大事なことは「歳」になる。日本には「数え年」と「満年齢」と二つの数え方がある。周知の通り、数え年は生まれた年は「1」である。

12月31日に生まれた子は、翌1月1日は二歳になる。この数え方を踏襲したのが年忌である。一年後は一周忌といい、二年目は「三回忌」になる。これは数え年の誕生日の数え方である。



ということは、生まれて来てからの年数も死後の年数の数え方が同じなので、生死一如、あるいは死は死後のある世界に居るとすれば次元の違いと様相の違いで、人は「生」と「死」の旅をしているだけなのだと、仏教は言っている。区切りとしての数える意味は、生死一如と言っている。

ならば、生と死に長いも短いもない。それぞれの次元において、何を体験し、何を学び、何を知るかでしかない。生きる意味を知らない人は、夢遊病者同然であり、生まれて来た理由が判らなければ、次に何処へ行くのかも判らず、彷徨するしかない。

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