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ブログ  精神分析家の徒然草 

《 届かぬ想い 》徒然草-167

先頃、最高裁でコロナ禍の補償金が支払われないことが合意であると、原告の風俗従事者達に判決が下され、訴えが斥けられた。

彼女達は国民として納税の義務を果たしながらも補償金を受けられないのは法の下の平等に反すると訴えたにも拘らず、とるものは取り、払うべきものを払わないこの不条理はあくまでの法の下の平等になく、憲法違反であることは誰の眼にも明らかである。にも拘らず、最高裁はこの不条理をいとも簡単に斥けた。

職業に貴賤はないというが、未だに「赤線」時代の春を販ぐ仕事への賤しさの観念を拭い切れてないことを、最高裁は暴露してしまった。この為体では、三権分立も怪しくなってくる。



司法は世間の偏見やイデオロギー、宗教から自律してなければならない。そして、文化概念や因習や慣習からも自由でなければならない。それが一般国民が不文律としている職業に対する差別意識を未だに根強く引きずっている事実に驚愕する。日本は未だ、明治である。

文明・科学がどれほど進歩しても、女姓への文化的・宗教的地位と価値は、未だ商品化の対象イメージから脱却していない。聖母マリア信仰は女性の地位を男と対等、もしくはそれ以上に格上げしただろうか。アリアはあくまで聖母であって、女性ではない。だから処女懐胎したのである。母は女ではなく、産める姓なので、男の快楽の対象の女ではない。



いずれにしても、女性の社会的地位と価値は、未だ男と社会と文化が決めている。女性には人として、女性としての地位や価値を自らが規定する主体性が国から付与されてない。即ち人間として見放されてないということである。

男女平等は空念仏で、絵に描いた餅でしかない。現物としての現生を手に出来なければ、飢え死にしてしまう。

国によって人間でないものにされた女性達は、自らを社会の中でどう位置付けて生きていくのだろう。彼女達の叫ぶ声が聴こえる。「私達も人間だ!」果たして届くのだろうか、この声が。

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