《 Crush 》徒然草-166

何か不吉なことの前兆のように受け取ったりしがちであるが、事は受け取り方で意味は変わる。世に言うマイナス思考とプラス思考のゲシュタルトである。物事は主観の意味付けの仕方で、いかようにもなる。
そこから生まれた私の格言は「最悪は最良」だが、たとえ最悪ではなくても、物事の現象の把え方は二面しかない。自分にとって利か害かである。利害損得において、人は事の良い悪いを決める。

故事に「万事塞翁が馬」とあるように、事の良し悪しは、その時だけ見ていたので、真の利害は判らないものである。長い年月をかけ出る結果もある。人は常に「あの時、ああしていれば」と後悔する。それは先の因果の連鎖が読めないし、予測がつかないから。結果が出た時にしか、振り返れず、「たら、れば」を吐いてしまう。詮無い事を知りながら、「あの時ああしていれば」と嘆く。
未来が予測不可能である現実界は、不安や恐怖の解消のために占いを使う。それに、災害や災難の予知・予防として「兆」の概念をつくった。それが吉兆と凶兆である。家電製品が壊れていく現象を「吉」とみるか「凶」とみるかは個人の裁量であり、自由である。

換言すれば、悲観主義か楽観主義に大別される。+-思考もこれと同様の二分法である。
どちらにしても「壊れる」という文字の把え方である。
crushだけみてみると、単に無であるが、その次の行動として、人は必ずその後にbuildをする。ならば、壊れた後に新しい何かが創られる。生まれ変わりの前兆と受け取ることに気付いた時、悲観は希望につながる。新たな人生の始まりでもある前兆こそ、crushなのである。根元に事の良し悪しや利害は決められない。
が、しかし、そう考えるとこの世に良い悪いは存在しなくなる。形あるものは無くなる真理からすれば、すべての現実界の現象は幻ということになる。存在したのは人間が作った意味だけということになる。