Blog

ブログ  精神分析家の徒然草 

《 きっと、いつか 》徒然草-164

サラリーマンは定年退職によって、晩年会社から見切られて自由の身となり、第二の人生を趣味や社会貢献で歩むことができるが、自由業にはその区切りがない。自らの意志か、やめざるを得ない事態に遭遇するしか、エンドマークをつける事ができない。故に、自分の時間を即ち趣味に生きる第二の人生は無い。

音楽と車に触れ続ける至福の時間を持つことも、手に入れる事も出来ない。それを思うと、余りに不幸な我が身の人生と、不憫になる。自らを哀れんだ処で何の解決にもならないが、我と我が身の人生の、どう仕様もない、変え難い構造から脱け出すことも出来ない。



今、やれる事をやるしかない状況を受け容れて、いつかそんな日が訪れると夢見ながら生きていくしかない。一時のしあわせを少しずつ重ねて、その喜びと感動を胸にしまい、静かにそれを味わいつつ、明日に希望を抱きながら、今を生きている。

好きな人、好きなモノ、好きな事をして生ければ、それに越したことはないが、好きな事に月に一度もしくは、二カ月に一度しか乗れないのは、余りに残念である。

久しぶりにそのステアリングを握り、アクセルを踏み、滑り出した車に身を委ね、その音と振動に身震いしている自分は、生きている。その束の間の時を永遠と想いながら短い時を過ごす。愛おしくて、ずっと一緒に居たいのに、月に一度しか会えない切ない想いは、まるで遠距離恋愛しているカップルの心情に重なる。



もっと一緒に居たい、ずっと乗っていたいと思いが募るばかりで、どう仕様もない切なさに包まれる。別れの時は直ぐにやって来る。もっと対話したかった、もっと語り合いたかった、あのカーブやあの直線、あのS字でと尽きることなく、心残りが次から次と湧き上がってくる。

そんな想いを抑えるために、心の奥深い処から滝のように降り注ぐ声がきこえる。「きっと、いつか!」と。

SHAREシェアする

一覧

HOME> >《 きっと、いつか 》徒然草-164