《 ターニングポイント 》徒然草-163

これが意味することは、人と社会と自然と交流するのではなく、ネットワーク回線の情報を眺めている、一方的で何のコミュニケートもない孤独の時間を過ごしていると、言っている。
孤独を紛らわすのではなく、より孤独に浸っているといえる。そこにあるのは、そこで交流しているのは文字と唯動画を観ている孤独な主体があるだけだ。しかし、それを主体といえるのだろうか。

ラカンの定義によれば、主体は、対象aという享楽に向かう時に生まれるもので、そこに、即ちネット回線に入り、文字と動画に流されている状態を、主体の運動といえるだろうか。そこに存在するのは、観ているだけの観客と傍観者という第三者であり、欲望の運動の主体ではない。
孤独とは、理解と共感もなく、唯一人で語り、叫び続けている人間にしか存在しない。交流なき自我は孤独ではなく、「孤立」という。
互いに手を取り合い、共感し、共に一つの目的に向かって生きる仲間が居てこそ、人は生きているといえる。それ以外は唯生存しているということでしかない。今やその生存すら危うい状況である。明日の平和と無事は誰も手にすることは出来ない。保証も保険も守護もない。
その意味で、人々は平等な存在になった。

これから人は、何を頼りに、何を信じて、何にすがって生きていけばいいのか。老後を保証する年金でも社会制度でもなく、人が人を信じて、互いに手をとり、助け合って生きて行くことが、唯一の救いの道である。
人類は今、そのターニングポイントに来ている。