《 人馬一体 》徒然草-151
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事が有った時に、人は失ったモノを通して、それまでの平穏な日々は奇跡だった事に気付くのだ。それは時既に遅く、呆然たる思いの中で、途方に暮れるしかなくなる。
だから我々には自らの手で日々安らかな日常に、特別な日を設けて、日常を見直す、所謂「ハレの日」が必要なのである。そこに表れるのが「祭り」である。
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祭りの中心は神であり、その神の力が具現化した儀式を遂行し、人間と神が交流する時と場を現出したものが、祭りである。その全体を神事という。
神の成せる術を神の振舞として、雅楽、太鼓、神輿、松明、ケンカ、激突、神楽、奉納といった数々の行いによって神と対話する特別な空間と時間の演出による行事は、人智の解釈の及ぶ領域とは全く相容れない、そこには異次元の営みがある。
人間社会の知識、常識、科学や数学、理論、文化概念で理解する対象ではないもの、それが神事であり、神社と呼ばれる空間なのである。
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その異次元の営為・儀式を人間の眼と知で把えた珍事が新聞に載っていた。2025年2月6日の毎日新聞に『上げ馬神事は動物虐待か』という見出しが目に入った。これは三重県桑名市多度大社で行われる神事である。
それを言うなら北海道で行われる、馬に重りを引かせてするレースなどは、もっと過酷で虐待に相当するのではないかと思う。剰えお金を賭けるギャンブルの道具にしている有様は、その名に相応しいであろう、動物虐待という。
今や、今を生きる人々には神と人間の境界はなく、いや神の概念すら失っているのではないか、人馬一体となって躍動する神事に神神しさを見るのは私だけだろうか。だから、私はフェラーリを運転している時に、神を見るのは、その為であろうか。