《甘露の雨》徒然草-146
満足に野球が出来ない大谷をスタメンからはずすことなく使い続けた監督の慧眼には、感服の至りである。それは、ヤンキースはメジャーリーグトップのスーパスターの威厳にその脅威に平伏すると予測した監督の読みに、私は恐れ入った。
その象徴的場面・打席がある。最終戦だったが、キャッチャーの打撃妨害を誘った一振りである。キャッチャーは球のコースで危険な甘いホームランボールかどうか判る筈である。大谷の好きなコースに球が来て、慌ててグラブを差し出してしまい、結果打撃妨害で出塁した。ヒットと同じである。
それほどキャッチャーを焦らせた大谷の存在の偉大さに、私は唯々驚いた。この場面で大谷は、野球選手の存在を超えていた。
結局手術をしなければならないほどの脱臼だったのだから、まともにバットを振れる筈もなく、恐るるに足りない選手であったにも拘らず、出場させたチーム、球団には伊達に1,000億も払った訳ではないことが証明された。
それはとまれ、私が観たものはそれではなく、優勝祝賀会のシャンパンファイトのかけ合いの、乱痴気騒ぎの方である。感動と喜びを表現するのに、誰憚ることはないが、しかし、シャンパンやビールを掛け合う必要と意味が判らない。
日本の野球界も同様の事をするが、あそこまでバカ騒ぎするエネルギーの源は何なのか、精神科学的には解らない。
敢えていうなら「ファナティック・熱狂」であるが、例え数ヶ月以上に及ぶ長いシーズンを闘ってきた選手達にとって、夢を追いかけ、それが叶った現実は万感の思いを抱かせるであろうことは、想像に難しくないが、それにしても、狂喜乱舞はいいにしても、何故おいしい酒を掛ける必要があるのか。
元型は宗教的儀式に関わっているかと推測するが、お釈迦様の誕生日にその像に天茶をかけるのをみたが、それを彷彿とさせる。甘露の甘茶が神から降り注がれる再現とするなら、彼らは神に祝福される神の子になったのだ。