《鳥》徒然草-137
囚人であると同時に、生活と生命の安全は保たれている。医療も福祉も手厚く受けられる。人として豊かな生活も保障されている。
言論も行動も職業選択の自由も与えられ、名前が数字に代わっても、何ら不自由もなく、生活に支障もないので、その変化に気付かない。
私は名前を持った独りの個人でありたい。しかし、国は個は、唯の一人の国の民でしかない。世代は変わり、次から次に人は産まれてくる。その一人一人は河原の石ころと同じである。
名も無き石ころのように、人もまた時の流れを象徴する川の流れの中で、流されて砕け散って砂になる。ただそれだけの運命なのだ。それなら名前は要らないと合点がいく。
災害や戦争で亡くなった人達の墓碑に数字を刻むのか、名前を刻むのか、一体これからどんな意味をこれからの時代、何と定義されるのだろうか。
私が私であるという自己規定と自我理想に同一化していく主体の運動は、果たして起こり得るのだろうか。即ち人間は「欲望」を持ち続けることが出来るのかと、私は問いかけている。そもそも人間は何者なのかと。
その時私はある神社の境内に居た。目の前を一羽の鳥が飛び去って大空へと消えていった。人間は飛べない。それは身体ではなく、心が四苦八苦に依って解脱できないから、自由になれないのである。鳥の様な自由な心を持ち、数字も名前も要らない世界に憧れる。