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ブログ  精神分析家の徒然草 

《解釈》徒然草-135

2024年6月4日、車業界全体に激震が走った。自動車5社の認証不正が国交省により暴かれたからである。その中に世界に冠たるT社もあった。私は嘗てからT社亡国論を唱えていた。それは車造りのポリシーからそう言ったのだ。

T社の唱える車とは「安心・安全・エコノミー」に快適に、ゴージャスにコンフォートの精神が造り出す車は、唯の移動手段の機械に過ぎない。そこにいくと、欧州車の多くは、「乗れるものなら乗ってみろ」精神で、車を通してユーザーに車とは如何なるものかと問いかけ、哲学してくるのである。



その代表車がLotus・エリーゼである。先ず乗り込むのに、背骨が折れんばかりに屈曲しないと運転席に座れないから始まり、トランクはエンジンルーム、リクライニングはなく、シートは板みたいに固く、およそコンフォートとは縁遠く、快適さの一字もない。なのに、未だにそれを支持し、愛し続けるユーザーが居るのだ。その中の一人が私なのだ。

何がそれほど人を惹きつけるのか。車を愛して造っている造り手の心が伝わってくる。その熱さと至福がダイレクトにステアリングを通して、振動を通して、そしてエンジン音を通して、車への愛の叫びが伝わってくるから、乗っているのだ。その愛が日本の車には無い。

売上至上主義では、造りようがない。故に、それが意味することは、乗り手の思考力を奪うということになる。たかが車を運転することが、そんな大袈裟な事態を生み出すとは、誰も考えないだろうが。ユーザーの数は何千万人にのぼる。



考える力を失った人々は、主体性を失い、唯従うだけのロボットになってしまう。それが国力を弱体化させるのである。

人は考え、挑戦し続ける限り進歩するが、それを止めた時退化し、衰弱して滅亡する。それを裏付ける発言がトップの詫び会見で語られた。それは「不正は解釈の違いから…」と自らの論理性の無さを露呈した。技術・科学に解釈はない。法則とデータと結果でしか物理学にはない。

解釈は文学・思想・哲学の形而上学の問題で、形而下の物の世界にそれはない。思考力のみが、発言の誤りを気付かせる。

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