《エベレスト》徒然草-124
60代の男性はそれを実行し、見事引き当てたのが『60歳から始める山登り』という本だった。既に数ヵ月、毎日曜日、雨風の強い日以外山登りをしている。その姿に妻も共鳴し、今は時折随行するまでになり、夫婦円満になってきた。
私は一切山登りはしない。脚に自信がない訳ではなく、自然の中に見を置き、木々の葉音や鳥の鳴き声、吹き抜ける風、流れる雲、時折木々の葉の間から木漏れ日が煌めく宝石のような眩しさの中に身を置く至福感は知っている。それを山頂を目指して得ようとは思ないだけである。その訳は下山が余りに虚しい行為と思ってしまうからだ。
人はそれよりも頂上に立った時の達成感がそれを上回るからだという。私には、苦痛の果ての達成感はなく、唯眺望の開けた、その広大さに感動するだけで、その後の下山の虚無は要らない。
かの冒険家野口氏は、エベレスト登頂の際に、頂上から感動のメッセージを送り、下山シーンで泪してるところが映された。解説者は、感動の泪とそれを伝えた。ところが友人は下山してから、それは恐怖の泪だったと言った。再度登頂までに費やした恐怖を再度味わわなければいけないその恐怖に泪したのである。私はそれをしたくないだけ。
その代りではないが、私はエベレストに登ろうと決意した。勿論それは比喩で、そのエベレストはラカン理論である。この知性の山々の頂上に立つことは無いからである。登り続けるしかないから挑んだ。
精神分析家 蘇廻成輪