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ブログ  精神分析家の徒然草 

《図書館》徒然草-122

交通違反講習会に出席するために、東大宮駅に立った。大学時代、東大宮駅に出来たばかりのキャンパスに車で通学していたので、駅前風景は知る由もないが、それでも駅前は街らしく、様々な店やビルが建ち並び、50年の歳月を感じさせる賑やかさと活気と時代の変化を示すテクノロジーに満ちた姿に成長していることは、肌に感じて直ぐに判った。

こんなことでもなければ、一生涯私は東大宮の駅に立つことはなかったであろう。ホームを歩きながら、大学時代の、青春を哲学に生きていた二十歳の自分に向かって 遡行していた。



当時の流行は、反戦運動と麻雀だった。そしてスポーツはボーリングが一世を風靡していた。正に猫も杓子もボーリングをし、200点を一つのステータスに血道をあげていた。

スタイルといえば、長髪にGパンと申し合わせた様に皆、恰もそれが青春のシンボルであるかの如く、肩をいからせ、大道を闊歩していた。それにフォークギターケースを持てば、完璧に青春像のモデルになれた。煙草を喰わえ、麻雀パイをつまんで「リーチ」と言えば、一端の男っぽさを演じることができた。

そんな時代の風潮の中、私は独り講義に出ず、図書館の個室に隠り、サルトルの『存在と無』、キルケゴールの『あれか、これか』『死に至る病』、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』、フッサールの『現象学の理念』やニーチェ、カント、ボーヴォワール等々の思索書を読み漁っていたのだ。



反戦運動で横須賀に行くこともなく、唯一人、図書館に閉じ籠って生とは何か、死とは何か、愛とは何かの答を必死に書物の中に求めた。しかし、そこに答えはなった。あれから50年経ってもその答えは無かった。

その時、目の前で転んで泣いている幼い子をなだめている母子を見た。それを見た時、答が出た。「人の営みは、時が経っても変わらない」と。人は人でしかないと漸く長年の問いの答をみつけた。

 

精神分析家 蘇廻成輪

 

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