《文化》徒然草-120
人類は常に進歩と進化を続けてきた。何の為のそれだったのか。おそらく作業効率と安全性のもとに考え、つくられて来たのだ。そうして、文明は「より速く」「より大きく」「より強く」「より正確に」そして休むことなく24時間動作し続けるロボットを考えたのだ。
機械に肩代わりさせた労働時間の省力・短縮により、得たものは一体何なのか。その時間を自分の余暇や生活のゆとりにどれだけ活かせたのだろうか。果して文明の進歩は人間に幸福という意味を創造したのだろうか。
外食産業はウエイトレスの代わりにロボットを使い始めた。しかし、配膳して帰るだけのロボットが店内を動き廻っている様を見ていると、自分が食べるだけのロボットになってしまった様な気になってくる。人間の食事は生存するためだけの餌ではない筈だ。
作る人の想いと、それを持ってくる給仕の人との僅かな会話と、「美味しかった」と告げる客と料理人との間の心の交流こそ、食事をした、美味しい料理を頂いたという満足感と至福の一時を過ごせた喜びを共に伝え合い、心の交流をしたその時を生きた、それこそが食の醍醐味ではないか。その時を共にすごせなくて、食事という行為は有り得ない。
食する一連の行為には、人間が人間らしく生きていると実感させる、一時の幸福感に浸れる何ものにも代え難い崇高な行為なのである。謂わば、神事というべきかもしれない。その尊厳をいとも簡単に、心ない唯の機能だけの機械が、神聖な食事の世界に介入してもいいものだろうか。私は甚だ疑問を抱く。
人間の営みの中にずかずかと合理化・安全・効率の基に情緒や感性・美や形式・儀式の世界に踏み込むことを私は良しとしない。あくまで人間が人間であるための守るべき領域は何かを考えさせる。それは、心の交流によって成立する「文化」である。ロボット・AIがつくれない唯一のものである。
精神分析家 蘇廻成輪