《犬の穴》徒然草-111
私は二十歳の時にその問いを持ち、爾来 五十余年問いかけ続け、答えを求めてJ.ラカンに辿り着いた。そして一つの答えを得た。それは「智」を体現すること。
「智」とはこの三次元を含む、あらゆる次元を貫く働きを指す。人は時にそれを真理といい、密教は大日如来といい、科学はエネルギーと言った。私は今それを神でも創造主でもなく、敢えてそれを私は「個」と言いたい。
単純にこの世界の唯った一つの真実は、私が今、ここに生きているということだ。それ以外に何の事実も現象もない。一人の私という「個」が紛れもなく今こうして徒然草を書いているという事実。それが真理であり、「智」であり「神」であり、この世の創造主なのだ。
*
真摯に私と向き合えば、そこに見て、感じて、考え、想像する私の心が在る。私はいつも世界と人と、聖者達と対話して生きている。そして必ず、現象や人を通して、聖者の声をきいている。彼らは問いかければ、必ず答えてくれる。
他者のことはどうでもいいのだが、S氏には、問いかけに応えてくれる人や聖者は居るのだろうか。つまらぬ詮索はとまれ、対話する人を持っていない人は孤独であろう。私は孤独だが、この世で話し合える他者が居ないということでは。
しかし、いつも目に見えぬが、聖者たちの叡知に囲まれて生きているので、孤独を感じたことはない。孤独にして孤独にあらずの心境である。
人は各々淋しさや孤独という心の中に空虚な、何ものでも埋めることの出来ない穴を抱えているものである。いわば心のブラックホールである。あるクライアントが言った。「犬でしか埋められない淋しさがある」と。
犬以外の換喩が出来ない、唯一無二の存在を私はもっているだろうか、と問いかけてみた、自分自身に。するときこえてきた、その空虚の穴を埋めるものこそ、「私が手にすることのできた『智』」である。
精神分析家 蘇廻成輪