現実を嘆く無力な私が力を得て、理想の自分に同一化し、幸せに向かうまで
精神分析療法は気付き療法とも言われます。
ここではセラピーと講座を通して自己に気付き、現実を嘆いていた無力な私が力を得て、理想の自分に同一化する運動を重ね、幸せに向かうことを妨げる障害物を取り除き、幸せに向かう自分が主体となるまでをつづっています。
目次
現実を嘆く無力な私から有力な私へ
先生は常識には縛られていません。「私の言う事は世間の非常識」と先生が講座で言っていたのを思い出します。でも当時の私は先生の言葉を非常識と思ったことはありませんでした。
私にとっての先生は私の理想を体現している人で、何よりの私との違いは、先生は言行一致していることでした。一方の私はきれいな理想を抱いていて、こうなったらいいな、ああだったらいいなと、理想を多く思い描いていました。その私の理想は先生の考えと対立するものではなく、むしろ一致していました。でも同じだからこそ、先生との決定的な違いに私は気が付いてしまいました。先生は理想を現実に変えていく力があり、私にはその力がないということに。
そのことに気付いた直後は受け容れがたく、身体症状が出ました。とはいってもこの気付きは私が変わったという証明でもありました。それまでのセラピー期間中に、既に以前とは違う私になっていて、無力な私はもう過去となり、今の私は理想を現実に変えていける有力な私になっていました。セラピー中に何度か言われて頭の中にしまわれていた先生の声、「あなたの治療目標は無力から有力へ」がはっきりと聞こえるようになりました。
理想の自分に同一化する運動
きれいな理想を描く一方で現実を嘆くことしかしていなかった無力な私にさよならを告げ、力を得た私が主体の、欠如を埋めていく運動がスタートしました。
この運動の最中には相反する感情も湧き出てきました。まずは理想の自分に同一化した時の喜びや達成感。そして、理想の自分に同一化したとはいえ、元々何もなかった私には、手にした私が普通の人間ならば誰でも持っている当たり前の事のように思え、喜びは去っていき、代わりに悲しみがこみ上げてきました。
自己肯定と自己否定などの対立する言語や、相反する感情が入れ替わる不安定さがありましたが、理想の自分に同一化する運動はやめることなく続けていきました。
幸せに向かう自分が主体になるまで
「あなたは正義感が強い」これもよくセラピー中に先生から言われていた言葉でした。「主体の無い人は正義や正論で語る」という講座での学びもありました。主体が無いということは欲望が無いということです。
劣等感をテーマにした講座が、私がいかに常識に縛られていたかに気付かせてくれました。欲望の無い人がどうして動けるのかという問いの答えも得ました。自分の怒りや悲しみや嘆きの多くも、社会的理想人のモデルと自分を比べることで作られていたものだったと気が付きました。
先生は社会的な理想人のモデルを基準にするのではなく、私の内なる叫びや欲望に耳を傾けてくれます。そんな先生の言葉は私を幸せにするための言葉だと分かっていながらも、先生に向けられた怒りは、養育史上での出来事が全ての原因ではなく、社会の中で刷り込まれてしまった常識的な考えとの対立に起因するものもありました。
講座の中である女性が見た夢の解釈を聞いたことで、超自我は不幸製造人とはこういうことかということにも気が付き、幸せに向かうことを妨げようとする障害物が取り除かれ、幸せに向かう自分が主体となれました。
親との関係の変化とこれからのこと
常識に縛られない先生のセラピーは、親との関係までも書き換えてくれました。親は私に悪い事をしたという気持ちは持ってくれていたので、セラピーには協力的で、余計な手出しはしないけれど、金銭面では助けてくれました。
私にはセラピーを受け始めた時から、「生まれ変わった私で生きていきたい!!」という強い思いがありました。私が新しい自分になれば、親が私に悪い事をしたという罪意識を持つ必要もなくなります。親は親としてやり残したことができ、私は子供時代にできなかったことをセラピーでやり直すことができ、お互いにとって良かったと思います。
セラピーを受けて行く中で、親からの自律や、私という個を作っていくこともしました。
今では私も親もお互いがそれぞれの人生を生きているから、頻繁に会ったり話したりするわけではないけれど、時々会ったり話したりします。それがお互いに結構楽しかったりして、何だか不思議な気持ちです。
最後になりますが、幸せに終わりはありません。先生とのセラピーの時間を大切にし、先生が切り拓いてくれたこの道を、これから先も歩んでいきたいと思います。