《未体験》徒然草-108

お馴染みの台詞は良く時代劇などで使う手法だが、その典型は件の印籠を出して「これが眼に入らぬか」の時代劇に始まる。それを踏襲した処が、NHKの律儀さを感じる。素直にその王道を歩む製作者に敬意を表したい。天晴! 天下のNHKだ! と言わんばかりの正統な演出にすっかりハマり見続けた。

ドラマの台詞が、そのまま時代にも生きていた事実に私は驚いたのだが、家人は一向にその時代を超えた符合には何の興味も示さなかったのは、私にとっては不思議で、一つの疑問を抱かせた。それは、人は何を語り、そもそも語るとは何なのかである。
他者に語るのは、一体何なのだろう。ラカンは、人は欲望を語る、正確には「語る主体は欲望である」であるが、それはとまれ、他者に語る、というより、しゃべりたいのは目標か愚痴か怒りと責めであるが、そのどれにもドラマの中の台詞の符合に当らない。

だから語る内に入らないが、偶然と符合の妙は語りたくなる一つの事ではないかと思うのは私だけだろうか。私の周囲にはこの名字は無かった。それはその現実は無かったというべきかもしれない。家人には現実にあった唯の事象の一つでしかなく、珍しくも何ともなく、同じだという感慨だけで、言葉にする意味は無かったのだろう。
結局語る、語らない分水嶺は、現実にあったか、無かったかに尽きる。無かった私には新しい発見であり、体験であることに、新鮮さを感じたため、心に止まったのである。一方、現実を体験した家人は、単に反復でしかない為、何の興味も示さなかったのだ。人が語るのは、未体験の事象だということだ。
精神分析家 蘇廻成輪