《私の見た青空》徒然草-107

そして掻きむしられる様な焦燥感に傷悴し切った彼女はゲームセンターを後にし、Sエンタメ施設に行き、そこで取れなかったがどうしても欲しかったぬいぐるみを買った。それはゲームに投資した額の半分にも満たなかった。彼女はそれを手にして、小さく微笑んだ「ありがとう」と言って。
このエピソードから合理主義的大人はこう考える。なら最初から買いに行けばいいではないか。これは至極まともな考えではあるが、子供の心の世界にはこの合理主義は無い。在るのは、遊びの心である。

遊びの心って何だろう。心が遊ぶとは、運動力学的に見れば、心は何の未練もなく、自由に動けるということになる。これを人は気儘とか気紛れ、我が儘といって戒めて来た。道徳という裁判官と法律により、取り締まられ裁かれて来た。心の自由この時人間から剥奪されたのだ。人は自由に生きる権利と遊ぶことを法と道徳の許に奪われた。
成人になる前に、既に法の適用以前の年齢で根こそぎ奪われていたのだ。大人は法の許にギャンブルと娯楽を条件付きで擬似遊びで誤魔化して生き延びている道化師である。人々は皆ピエロになって自らの役割を生きるしか、この社会では生きられない。
それに疲れ果てて行き場を失った人達がクライアントである。あの涙を流し、裡にペーソスを抱えて必死に笑って、周囲に気を使いながら、怯えながら生きていかざるを得ないのが、クライアントです。心は凍りついて、全く動かず、フリーズしたまま身動きもせず、じっと息を潜めている。この姿を世間では引き籠りという。

心も体も自由に生きられる空間が、この世に、この社会に在るのだろうか。きっとそれは青空の中にしかないのである。私は一過性の分裂病に陥った時、そこから私を救い出してくれたのが、他ならないその青空だった。
私はその時、頭を上空の青空に向け唯青空を眺めていた。そして呟いた「青空だ、私は癒えた」。そして自由になった。
精神分析家 蘇廻成輪