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ブログ  精神分析家の徒然草 

《幸せな時間》徒然草-102

人はそれぞれの幸せを感じながら過ごす時間と空間を持っている。それは、穏やかな時の流れや、安らか、感動、喜び、満足、激しい興奮、静謐、侘び、寂び、美しいものに触れ、それに囲まれている時々など、人はその中に浸ることで、幸せな気分に浸り、幸福感に包まれる。まるで母の子宮の中に居た、あの胎児に成り切った情態と同一になれる。その時に至福が現れる。人は至福感に包まれる。

その幸福は金で買えるものばかりである。今の世で、金で買えない幸福など、どこにもない。総ての事も物も、金さえあれば手に入れることが出来る。最後は金が尽きることではなく、買いたい幸福が見つからなくなってしまうことだ。その悲劇が、金で買える幸福の終焉である。



それで手に入れた幸福は、欲望によるものではなく、単なる形式と欲求と快適さと、見栄、虚飾、自己愛、そして暇つぶしでしかなかったことを証明する。これは持たざる者、即ち貧乏人の負け惜しみではなく、事実である。

週刊誌のコラムで読んだものだが、アラブかどこかの富豪の女性が毎日1,000万円以上使うことを自分に課し習慣にしていたが、最後お金を使うのに、疲れたといって浪費を止めた。成れの果ては、金に使われている自分に嫌悪し、浪費に思考を使うことの無意味さと、徒労に気付いたのである。



一般市民は何と幸福なのだろう。まだ欲しいものや金で買える幸福を持っている貧しさは、神の恵みである。ラカンは欠如が欲望をつくり、それは永遠に続く、と言っている。真の欲望とは何か。それは金で買えるのか。Yes。 それは分析をすることでしか手に入らないから。

人の世は、何処まで行っても金で買える仕合せから離れることは出来ない。一層、欲望を放棄してしまえば、この欲望と金と幸福のジレンマから解放される自由を選ぶことの方が、本当の幸福かもしれない。

仏教は求不得苦や煩悩の愚かさを説き、そこから解脱せよと、釈迦は民衆に説いた。民衆はそれに従わず、今日、物に溢れる豊饒の物欲の中で埋れようとしている。求めていた幸福に窒息寸前である。そこで火星に脱出しようとしている。人類の愚行これに極まれり。

 

精神分析家 蘇廻成輪

 

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