《初物》徒然草-98

何とも日本的としかいいようのない、正月の風景は何処へ行ってしまったのだろう。子供の頃の「紅白歌合戦」のTVを観て、除夜の鐘を聞き、神社への初詣に向かう風習は無くなり、いつもの日常の一日の区切りであり、新年を迎えられたという新たな心に切り替えるスイッチにならなくなった大晦日から元旦の移り変わりのない、変哲のない時の流れに堕落してしまった。

この区切りの無さが、自らの進歩と前進性を損なっている。一年毎に区切ることで又新しく生まれ変わって新しい年に臨む事は人間の進歩にとって不可欠である。それは「初」めての心を産み出す。
諺に「初心忘るべからず」とあるように「初」の文字がもたらす無垢な心こそ、人間の再生に不可欠なのである。だから「初物」とか「初物食い」があるのである。初物を食えば、75日生きのびると言われる「初物七十五日」という言葉がある。そこから発展して女性の初を食べる漁色家にも使われる。
人間は食べ物ではないのに、何故寿命に関係する考え方なのか。その根拠は全く医学的に根拠も証拠もないが、人間が抱くイメージの連想から、そう刷り込んだのであろう。若い人の精気を吸うとか、生命力の象徴は若さに求められる。

何物も旬が美味しいように、初物には生命が濃密に宿っていると想像するのは、至極当然の事かもしれない。そのイメージは王室や王宮その他の王族の世界ではハーレムとして若い女性が必ずそこには居る。それも一人二人ではなく正妻側室が多数いる。
中国はその道の王者である。遂には交合の体位で病気を治す形を体系化し、書物に遺している。仏教でいえば、真言密教の「理趣経」に詳しく記されている。それはとまれ、女性の神性化は観音様や弁財天などに姿を変えながら、表されている。
何も知らない「女」が女性になる。この経緯に寿命が延びる秘密があるとすれば、それは「知」のエネルギーである。
精神分析家 蘇廻成輪