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ブログ  精神分析家の徒然草 

《留まる》徒然草-95

「ひがん」と言えば、どんな漢字が浮かぶだろうか。私は「彼岸」と「悲願」である。広辞苑ではこの他に「火燗」「飛丸」「飛雁」がある。それはとまれ、彼岸花が疾うに終わった頃にこの音が浮かんだのには訳がある。

分析治療は、此の岸である現状と現実の苦しみから、彼岸である享楽な世界への橋渡しである。私の住む鴻巣には日本一の川幅を持つ荒川が流れている。実際の水が流れている川の幅は26mであるが。とまれ、此岸から彼岸への案内人を勤めて三十年が経ち、何人ものクライアントを彼岸に連れて行った。



それは私にとって当たり前の事であり、クライアントは彼岸へ渡ってからは私にその世界の様子を、即ち幸福な生活を報告には来ない。それは当然である。彼岸に渡った人間が、嘗ての世界の話をする筈がない。過去はないのである。此岸での苦しい生活は記憶から消し去られ、喪失してしまっているのだから。

向こう岸に行った人への想いはなく、此岸に留まり、分析を続けている。正直言って分析の凄さは、私に実感はなかった。それは前述したように、その成果を聞かされることがなかったからである。

それが神からのご褒美だろうか、初めてクライアントから何がどう変わり、夢は叶ったのか、正に不可能と思っていたクライアントの夢を実現に導いたのは、それに寄与したと確かに言える分析の役割を確かに聞いた。



私は分析の力を甘く見ていた。神経症の改善や、心が軽くなって生き易くなるとか、病気がなくなるとか、個人の救済に終始していた。しかし、個々の救済は、その人達が構成する家族全体のメンバーを巻き込んで変容させていくのである。

分析に来ると、構成員も変容の渦に巻き込まれて変わることの実例を得た。そしてクライアントの夢の実現は個に留まらずに、家族全体の「仲の良さ」を実現し、彼女の夢を叶えた。ブラボー分析! 万歳分析! 私はまだ彼岸に行かずにここに留まる。

 

精神分析家 蘇廻成輪

 

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