《悼む》徒然草-90

LIVE「エリザベス女王の国葬」の生中継だった。少年少女合唱隊とコーラスの荘重な響きが、教会内を羽衣のたゆたいの様に拡がり漂っていた。そこに壮大なオルガンの響きが、天国への階段を昇るかのように、重低音から天使の笛の輝きのような粒子の飛び交う様が見えるような煌めきのパイプオルガンの音が重なる。

誰の作曲だか判らないが、況してその曲が喪葬ものとは思えない荘厳で明るい清明感に溢れていた。後にそれは戴冠式の時の曲と判り、合点がいった。キリスト教が基で創られた宗教音楽の大家といえば、言わずと知れたJ.S.BACHである。
私が最期に聴く曲は決まっている。G.フォーレのレクイエムとBACHのロ短調ミサにモテットである。唯一遺言をのこすとすれば、喪葬の時の曲の指定である。
それはとまれ、エリザベス女王のそれを観ていて、私も21歳の時、ウェストミンスター寺院の大理石を踏みしめ、あの天まで届かんばかりの天井とステンドグラスから射し込む色彩の光の波に包まれていた、あの時の私を憶い出した。

教会にはパイプオルガンが不可欠であることを、葬儀の一連の式次第の滞りのない流れの中に見た。音が教会の一部であり、血液のように教会内の隅隅まで行き渡っていた。静寂にして淀み無く流れる式次第の流麗さに、時を忘れ、浸ってみていた。これが国葬だと思った。
これをみるにつけ、どこぞの国は未だにそれをするに至らず、国民の総意も弔意もない形式だけの儀式を強行するに及んで、英国の大人とどこぞの国の幼稚さを否が応でもみせつけられ、国民の一人として忸怩たる思いである。人の死を悼む心の完璧さを英国にみた。
精神分析家 蘇廻成輪