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ブログ  精神分析家の徒然草 

《営み》徒然草-76

最近、頭に泡のようにふと浮かんでくるフレーズがある。それは「未だ人間の営みというのが判りません」という一節である。太宰治氏の小説にあった様に記憶している。太宰氏といえば「恥多き人生を送って来ました」のフレーズもある。いずれにしても何故かこの頃、頭の中でリフレインしているフレーズである。

それはどうしてなのか自分では判っている。簡単なことである。私はある時期まで自らが立てたシナリオと人生設計通り悉く実現して来たのだが、ある時を境に、人生シナリオになかった、全く未知の人生が繰り広げられるようになったからである。



要は全く予想もつかない、考えもしなかった事が身の上におき始めたからである。人生シナリオの主人公とシナリオライターが自分自身ではなくなった。私の与り知らない誰かが、私の人生シナリオを書いている。それは勿論誰だか理論上は判っている。当然ながら、私の裡にいるもう一人の他者、即ち無意識である。

意識で書き上げたシナリオはすべて実現してしまった為、ネタ切れで無くなってしまった。そこに満を持して無意識がいよいよ自分の出番だと主導を握ったために、予測不能の事象が起き始めたのだ。無意識を黙らせ続けるシナリオがあれば、生涯無意識を沈黙させ続けることが出来たのだが、最後の夢だった本の出版もしてしまい、手詰まりになってしまい、途方に暮れ、仕事だけに集中した。



ところが、それは私にとって当たり前のことなので、夢の実現の余地はなかった。あるとすれば、分析者の養成である。それは叶わぬ夢として持ち続けているが、現れる気配もなく、徒に時は過ぎていく。いつしかそのシナリオが消えてしまったのか、意識上から削除された感がある。諦めた訳ではないが、その事は悠久の彼方へと馳せて、幽かに姿になってしまった。こうして私は人間の営みが判らなくなってしまったのだ。

もう一度取り戻す、人間とは何かの答えを求めて生き、それを形にする時、私は人間とは何かを語れる。今はまだその確かな答を持っていないが、その輪郭は少し見えて来た。

それは私が知り得た「知」を人に伝えることだ。たとえそれが社会に認められなくも何の評価もされなくも、私は私の手にした「知」を信じて伝える。それが人間のすべき「営み」である。

 

精神分析家 蘇廻成輪


 

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