《お互い様》徒然草-72

人生に、自らに絶望した挫折感から、世を果無むのは判らないでもないが、生け贄か、或いは道連れのように他者を巻き添えにして劇場的に死に場所を演出するパフォーマンスの目的と意味は理解しかねる。彼の本旨は別にある。行動と供述の間に矛盾や一貫性のなさ、コンプレックスが見え隠れしている。

「果無む」といえば、本家『徒然草』に「此の世を果無み、必ず生死を出でんと思はんに」という段がある。私成りの解釈でいえば、「この世に絶望したら、生きようか、いや死のうかと、あれこれ思いくらべてしまう」である。要は人は世を果無めば、死の淵に追いやられ葛藤するものだ、と言っている。
事件を起こした少年は、正にその場所に追い詰められ、思慮分別を失い、短絡的に衝動的に、且つ逃避的に、その場を逃れたい為だけの暴挙に出たのである。結果、彼は彼が望む本当の解決には至らず、すべては未遂に終わった。唯、人生に休止符を打っただけになった。

誰でも人生に挫折したり、アイデンティティーを失った時、「必ず生死を出でんと思はんに」になる。その時どうすればいいのだろう。
毎日新聞の記事の中に、奈良大の太田仁教授のコメントがある。それは「互恵行動」を取ること、と言っている。それは、生きる意味を失ったその人に、お互いが必要と感じられる対人関係を築くことで、人生の意味を再構築するコミュニケーションが、その人を救う方法と述べている。身体的には逆に「その人に助けを求める」ことで、依頼したり、援助を求めることでその人を主体的存在に書き換えるのである。
自らが失った生きる意味を些細な日常の中で必要とされる人になるという、他者の欲望を支えにして、自らの欲望を創出して貰う再生が、お互い様とお陰様という日本の古くからいわれている慣用句に尽きる。
精神分析家 蘇廻成輪