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ブログ  精神分析家の徒然草 

《声明》徒然草-68

仏教をはじめ、宗教は様々な芸術を生み出した。絵画、彫刻、物語り、音楽、文化等々、その形式は人間の生活・文化・伝統の中に染み込むように、人間世界に溶け込み、形を成した。

仏教美術と音楽は、それ自体が修行であり、目標になる。特にマンダラや仏像、そして読経、声明、木魚に太鼓、鐘などは音楽そのものである。各々に音程とリズムが在り、体を震わせる。中でも声明は不思議な世界を演出する。

キリスト教でも無伴奏の合唱、グレゴリオ聖歌がある。どちらも独特な音階と施法が、人の心を荘重にする。宗教と音楽は切っても切れない繋がりがある、不可分のものである。



体はリズムそのものである。心臓の鼓動は、1分間に60回の脈拍を基準として、音楽のテンポもそれに準じて、速い、ゆっくりが設定される。読経は太鼓や鐘の音が刻むテンポに導かれていく。そして心は高揚していく。

私は真言宗の葬式に参列した時、声明に出会った。三人の僧侶の声は、式場の中に響き渡り、その声の跳躍や急激な下降音の組合せで、リズムの揺れは、どうにも官能的に世界へと導いた。

お経の内容や意味は判らなかったが、その声の織り成す音の世界は、心を官能へと導いた。エロティシズムがそこにあった。死者に贈るものは生の喜びであるエロスなのだと知った。

真言密教の「理趣経」はそれを説いたものだ。空海はそれを門外不出として、最澄の申し出を断った。それは誤解を招かねない内容だからである。人間のエロスは文化の中で正当な扱いを受けない闇のテーマであり、常の歴史の中で抑圧され続けて来た。それをフロイトは精神科学において、白日の下に導き、汎性欲論を著した。



20世紀以降性は裏から表舞台に立ち、闇から解放されたかに見えるが、性別や性倒錯を市民権の一つとして自由に選択しようなどと、全くの見当違いの論争と運動が起きているが、この全く的はずれの思考に私は絶望し、又しても性は闇の中に押し戻されたと思った。

いつの世でも市民における性は、特別なもなのである。正しくその「性」の意味を理解し、人間に伝えているのは、フロイトとラカンの「性欲論」と「アンコール」である。これを人類は読み解かない限り、声明の本当に伝えたいことは永遠に人々の心に届かない。

 

精神分析家 蘇廻成輪


 

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