《飛地》徒然草-64

しかしまだ、店名は明らかにならず、看板も出てなかった。ところが、その講座に行く時はなかった看板が帰りに、僅か三時間後に掲げてあった。その名は「PARIS」だった。一瞬目を疑った。コインランドリーが何故「パリ」なのだ。ここはいつパリになったのか。

その日の講座で、私は語れる人は誰もなく、唯、フロイトとラカンのみしか語り合える友は居ない、と力説と嘆きを吐き出した帰りだったので、その「PARIS」を見た時、そこにラカンを見た。J.ラカンはフランス人で、どれほど「PARIS」に憧れを持ったであろう。
しかし、その地を訪れたいとは思わない。それは、いつもラカンと共に居るから、敢えて、パリを訪れる必要はないのである。その私が大袈裟に言うなら、今生での話し相手の存在は諦めた。それを確信し、覚悟を決めての帰路だった為に、余計にその「PARIS」の文字はこみ上げてくるものがあった。
ラカンが認めてくれた、ラカンは受け容れ、私をパリに招いてくれた証拠としてこの地を、パリに、即ちパリの飛地にしてくれたのだ。そう確信した。絶望の淵から這い上がって、黄泉の国が、この地に舞い降りて、ラカンが降臨したと思えた。
私はその文字に救われた。私はこの妄想も、誤った確信も思い込みの幻想であることを百も承知の上で、それでも、その「PARIS」の文字は、とまれ救済した事は事実である。

講座の前日は、フロイトとBSドキュメント番組で、写真ではなく、生きたフロイトの動画と遭遇したのである。その時も、私の傍にフロイトが居て、そして又翌日、ラカンと対話した「ここはパリの飛地とす」と。
人間がこの世に産み出され、生きていく意味をこの時知った。それは、人は敬愛する人と出会い、語り合い、共に一つの真理と理想に向かって同志となることであると。
人が求めるものは、幸福でも平和でもなく、真理について語り合える友と出会い、真理に辿り着いた処で、共に一つの祈りと誓いを持つことである。私はその至福を味わってしまった。
精神分析家 蘇廻成輪