《一瞬を生きる》徒然草-60

そもそもオリンピックは霊長類最強を決める祭りなのだから、それは人間も動物であることの認識を忘れないようにするための、人類の先祖返り祭典なのである。その趣旨ならば、獣のようにかじる行為は妥当で頷けないこともない。
しかし、走る、跳ぶ、投げるの筋肉と俊敏に曲芸まで取り入れた競技に何の意味があるのか、全く理解に苦しむ。走るはチーターに、跳ぶはカンガルーにまかせ、闘いは角を持ったをサイにまかせ、人は人らしく普通に楽しみ、スポーツは単なる娯楽と健康増進の運動にすればいい。それ以外の意味をスポーツに持たせることはない。

だが、文明が進めば、人は自らが動物であることから限りなく遠ざかり、生命の一種であることを忘れる。その忘却に抗うには決してスポーツで体を動かすことを忘れてはならない。
人はどこまでも生命の一種のホモサピエンスでしかないのだから。動物である人間に動物の本能の残滓があるとすれば、それは闘争であろう。それはレスリング、ボクシング、柔道、空手等に表れている。それにフェンシング、ヤリ投げ、砲丸投げ等の狩猟の名残りを競技にしたものにとどめている。
とまれ、人は人間である前に、唯の動物なのだ。生殖行為によって繫殖していくことで種の保存をしていく、一個の生命体なのだ。しかし、それも今や、人は授精によって、人間が動物ではなく、生命操作の対象になってしまった。

人間は人間の本分を忘れてしまっている。遠く動物界から離れ、人間という固有の種をつくろうとしている。生命体のあり方は様々であるように、金メダルの重さも各々である。
私が金メダルに対して思うことは、その労力の格差である。飛び込みは、一秒で決し、100m走は、9秒何かしで決着がつく。一方、野球、サッカー、ゴルフ、他の球技はすべて何時間も何十時間もかけ闘って、漸く手にする金メダルの重さは、余りに違いすぎるが、メダルはメダルである。
飛び板飛び込みの選手は金メダルをとっても、脚光を浴びることはない。一秒の演技では絵にならないし、その練習や苦労話もいかがなものか、その実体は判らないにしても、メダリストはそれまでの苦労と努力を語るだろうか。
語るとすれば一瞬の美学に私は人生を賭けました。一瞬を生きたのです。
精神分析家 蘇廻成輪