《讃美歌》徒然草-58

一つに、「どうやってクライエントを選んでいるのか」という彼の質問に対して私が手を差し伸べて、その手を掴んだ人を救っている、と答えたら、それと同じ場面を聖書の中に見つけて、教えてくれた。
人は限界に到るまで、人を頼らず、独りで何とかしようと頑張る。が、しかし、精根尽きた時、私から手を差し伸べる。本人には依頼する気力が失せてしまって、助けを求めることすら出来なくなっているのである。或いはその限界を気付けずに、呆然としている時に、私は手を差し伸べる。

しかし、それでもそれを拒否し、拒絶する人がほとんどである。その手を握るクライエントは極稀である。その時いつも想うことがある。それは、人は二種ある。「幸せになりたい人」と「不幸になりたい人」しか居ない。
藁にも縋る、と言うが、その藁が見えないのか、最初から縋ることを拒否しているのか、その藁を信じていないのか、自分には幸せはないと信じ切っているのか、いずれにしても、その手を払う。その後どんな状況になったのか知る術もないが、その消息はとまれ、その人はその人なりの道を選び歩んだのだから、納得のいく人生を歩んだことであろう。
人は、あれかこれかの人生の選択の時に、何を基準に選ぶのだろう。キリストは、愛と幸福を選べと説いた。
しかし、愛の概念も幸福の概念もなければ、それを選択仕様もない。彼らは皆それを拒否したのでも、拒絶したのでもない。唯知らないから、それを選べなかったのである。

愛が何であるか、幸福というものが何であるか、全く知らないとすれば、そもそも、それを選びようがないのである。それを思うと、幸せになれる人と、そうなれない人は、最初から決まっているように思う。
神父の声が石の教会の中を響き渡り、ステンドグラスを通した柔らかく優しい陽の光が広がり、パイプオルガンの壮麗な音が満ちて、讃美歌の合唱がそれに重なった時、教会の中は荘厳にして、厳粛な心持ちになり、思わず背筋が伸びる。
神が求めるものが、愛であり、平和であり、そして人々の幸せであることは、何の造作もなく心に浸み込んでくる。そして神の声が聴こえてくる、讃美歌にのって「人は幸せになるために、生を与えられた」と。
精神分析家 蘇廻成輪