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ブログ  精神分析家の徒然草 

《挨拶》徒然草-54

人は別れ際に、「お疲れさま」とか「気をつけて」とか、「頑張って」とか言う。又は昔使われた「御機嫌よう」とか、今はそれを「元気で」と、遠い別れの時に言う事が多い。相手の健康と無事を願い、祈る心を相手に伝える言葉の文化・習慣がある。

英語では「Have a nice day」と、楽しく、お天気でいいですねと言う。昔の人は、即ち明治・大正の人達は、挨拶の時に「いいお天気で」とか「いい塩梅です」と言っていた、祖父母は。英語では「How are you?」こんにちは、お元気ですかと言う。すると「I am fine」私は晴れてます、と応える。

心が晴れ晴れと快活で楽しく元気にしてますと。見栄や虚勢だけではなく、相手の心配に対して、安心させるために多少元気がなくても、ウツウツとしていても「I am fine!」と言ってしまう。



である一方他者は偸閑に「顔色悪いね」「元気ないね」と言う時もある。又逆に本当に心身とも疲れてしんどい時に、「元気出して、頑張れ」と言われても、益々落ち込むばかりで、更に辛くなってしまう。

人が交わす挨拶の言葉は、一体何の為に発せられているか。会った時に「Hello」と英語は言う。「今日は」と訳を教えられた。が、この原義は「Hallow」と辞書にある。この意味は、聖人、聖職者とある。ということは、人は互いを「聖人」と見なしていることになる。

「今日は」「Hello」は「聖人さま」と言っていることになる。これは確かに元気になるし、心は晴れ晴れとなり、思わず「I am fine thank you and you ?」と言ってしまうのは当然であろう。



遠く昔、人は人を聖人として、聖なる者への畏敬と尊厳を持ち、それを人に投影し、人は聖者であり、神であると見えていたのである。それは当然であろう。何故なら神と子と聖霊の三位一体の人間であると説かれている宗教が心の基底にあるならば、人は神の子であり、「Hallow」と言うのは首肯できる。

私は自分以外は皆師として、年齢・性格に関わりなく、私に向けていわれた言葉は、気付きとして受け容れる。何故なら、ラカンが教えてくれた言葉は大文字の他者Aだから。Aは神なのである。私は言葉に隷属し、言葉の意味を受け容れ、それを発音した人は神の声としてきこえるが故に、沈黙のうちに受け容れる。

私は私に向かって、ガンバレと言う。これは「我を張れ」の略語なのだ。自分が決めた信条にどこまでも、いかなることがあろうと従え、その我を張り続けろと叱咤するエールなのだ、ガンバレは。語源もそうだった「我が張る」の転と。

 

精神分析家 蘇廻成輪


 

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