《清流》徒然草-52

即ち音は、ノイズを震動によって本来の波形を損なわれる。外部の影響を一切受けずに、音そのものであり続けない限り、音は本来の美しさを失い、汚れるために、耳に心地良い音を「キレイ」とか「澄んだ」とか「透明な」とか形容するのである。
これはすべて、音をノイズと振動が汚すと視覚的見地からの表現であり、事実耳はその僅かの差異を聴き分けるのである。だから、澄んだキレイな音は、心を洗い流し、キレイにしてくれる。

その事実と効果を狙ったのが、ミュージックセラピーである。私の行っているミュージックセラピーは曲の選曲よりも、その音の透明感とノイズのないキレイな音による、周波数帯の曲を優先してプログラムする。
勿論その条件を満たすのは、当然ながら名曲と言われるクラッシクの作品に多い。バッハに始まりラベルに至る近代までの作品は、人間という生き物の崇高さを具現化している。
良く言われることだが、バッハの「シャコンヌ」一曲が存在するだけでも、人類は存在して良かったと、たとえ人類が戦争によって滅びたとしても。
曲の美しさは、オーディオの音の美しさとは全く違う。小さなポケットラジオから流れるシャコンヌも生の演奏のシャコンヌも、同じ感動を呼ぶ。聴こえてくる周波数とノイズの美は比べ様もなく生の音が美しいのは決まり切ったことであるが、小さなラジオから流れてくるシャコンヌも美しいのである。

オーディオのなかった、まだ真空管ラジオに耳をくっつけて、必死に聴いていたフルトヴェングラーの運命を未だに最も美しいと言うオーディオ評論家もいる。そこにくると、音そのものの良し悪し、ノイズや振動の問題ではなくなる。それは何か。
それは音を聴いているのではなく、その音を耳が足りない周波数を補正して、作曲家が意図した本来の音を、実際には鳴っていない音を聴いているのである。視覚でいえば「痘痕も靨」である。アバタの向こう側にエクボに描き変えて観ているのである。
人間の知覚は常に、現実の向こう側に「美」を感じる特異な存在である。美しき哉人間!
精神分析家 蘇廻成輪