《言葉に出来ない》徒然草-49

それを言った男は、王を自己の理想自我にしたのである。その対象に対して抱く想いは羨望であり、それを現実界の対象としてみた時、その対象・王は、嫉妬の対象に変わる。その意味は、自らの欲望のすべてを自分に代わって他者がそれを担っている。
即ち私の欲望の主体の座に他者が座っていることを意味する。故に、その座から排除して、自らが座を奪い取ろうとする。それが嫉妬である。

すべてを他者が持っていると見えた時、人はそれを奪い返そうとする。それは攻撃的になり、他者を言語的にも身体的にも傷付ける恐れがある。その結末は、どちらかが倒され、悲劇に終わるものだ。
好むと好まざるとに関わらず、人間の欲望は、人を狂気へと追い込む。その代表的欲望は、金と権力と女性である。そのどれも人は手にしたいと思うのは人情で、人の世の哀しみもそこから生まれる。
ドラマも王故に、金も権力も妃も思いのままである。その王の座に就くことは、その三つながら手にして、欲望のまにまに生きられる幸福を夢想したから、王に嫉妬したのである。
しかし、人間の理想的自己は、他者を通して見い出すものであろうか。私が私の裡に潜む、理想の自己と対話して、創り出すものではないだろうか。そもそも今の自分のままでどうしていられないのだろうか。現状のまま、現在の環境の中で生きることを諒とできないのは何故なのだろう。

私はある時まで、人生シナリオを次々に更新して、その通り生き、実現してきた。そしてシナリオの最後は「本の出版」であった。それを成し遂げた時、NEXTを失った。が今も生きている。それは新たなシナリオを書いたからではなく、シナリオが何処からともなく、私の手許に届いた、それに従っているだけである。
すべてを持った他者も、自らが創り出した自我理想もなく、唯々与えられたシナリオに沿って一日一日を更新しながら生きている。
これまでは欲望の物質化だけを目指したシナリオであったが、今は文字が書かれていない白紙の台本に、自らが書くこともなく、文字が浮かび上がってくることもなく、時の流れに身を委ねることもなく、言葉に出来ない何かに寄り沿って生きている。
精神分析家 蘇廻成輪