《鳥のうた》徒然草-48

東北道を那須に向かう道中、新緑に覆われた山々の連なりは、日本は最高に自然に恵まれた神の国と、自然にそう思え、腹一杯に緑の風を吸い込む。そして一言呟く「生きている」と。
詩涌碑庵に足を運ぶ回数が増えた。それは水抜きが無くなったから、帰宅の後始末が楽になり、行き易くなったのもある。が、自然は一気に息吹きを空一杯に吐き出し始めたから。それと対話する楽しみもあるから、通いが増えた。

鳥の鳴き声も「ホー、ホケキョ」から「スキ、スキ、スキ」に変わってきた。そんなに言われると、鳥の鳴き声で、鳥は鳥なりに意味はあって鳴いているのだろうが、それを聞く人にとっては、少しばかり気恥ずかしさを感じる。
主体を持って、シニフィアンを動かして、意味を人間に届けている訳ではないのに、そんなに言われても、どうすればいいの、と思ってしまう。愚かと知りつつ、何故か意味にきこえてしまう。
それは、詩涌碑庵にいくと、全く人間と接触せず、話すことが全くないために、鳴き声が、どうしても人間の声にきこえてしまうのである。
しかし、人も時々鳥になる。
好きでもないのに、好きと言ったり、好きなのに嫌いと言ったり、行きたくないのに、行くと言ったり、迷惑なのに、助かると言ったり、心にもない、嘘を平気で言う。

それは、鳥の「スキ、スキ、スキ」の鳴き声と全く形式が同じではないか。本来の意味とは別の意味による、誤った伝達形式において。鳥と人間が交流することも理解し合うこともない。あるのは誤解だけである。人間も云われた方は、その不一致の誤解すら気付かない。
カザルスが国連本部で、チェロを演奏した。それは「鳥のうた」という。それは「ピース、ピース、ピース」と鳴く鳥の民謡である。
人を好きになることぐらい、心に平和をもたらす感情はない。
精神分析家 蘇廻成輪