《青空》徒然草-47

そもそも人に思考する回路がないとさえ思ってしまうほど、論理が伝わらない。おそらく、その思考が出来る人を天才と呼んで、一部のほんの一握りの人にしか備わってない特別な能力として、人々は規定し、自ら考えることを放棄してしまったのだ。考えることは面倒臭いとして、何故か放棄した。
そして何も考えることなく日々漫然とすごし、唯死を待つだけの生きる屍になってしまった。だから、自ら生命を断つ必要もなく、唯生きて、いや生存して、死を待つばかりの存在になってしまった。

しかし、そんな人々の中でも少し考える人の一群がある。それは実業家と芸術家と社会運動家である。この一群の人々は行動し、ものを創り出し、それで社会と人々に貢献していると思い込み、剰えそれを使命とまで思い込んで、意気込んで生きている。
そんな彼らを社会は賛美し、もてはやし、祭り上げて賞賛し、表彰する。結局彼らは市民に奉仕させられているだけの、市井の人の幸福のための傀儡でしかない。彼らはそれに全く気付いていない。
それは、自分達は社会の成功者で市民より金持ちで、才能があり、権力もあり優者としての矜恃を持った幸福な人であるから。彼らの大義は社会貢献と人々の幸福のために働いているである。
結局そうして得た社会的名誉は、彼らが本当に求めていたものであろう。が、彼らはきっと不可能の文字に出会っている筈である。すべてを手にした様で、実は何も得ていないことに気付く。

それは人を愛し、好きになることが出来なかったこと。人は金と権力に群がり、その人を愛する訳ではない。愛によって近づき、信頼したのではない事に、世の成功者は知る。自分に何が欠けていたか、その時に気付く。
科学者だけは、全く別な不可能に出会う。それは人智を超えた知に出会うこと。人間の知では絶対に近づくことの出来ない何かに出会い、自らの無知を知り、そこで初めて「神の叡智」という概念を持つに至る。
科学者はこうして、絶望と不可能に向き合い、立ち尽くして、神の智を仰ぐのである。
その時目にするのは、青空である。
精神分析家 蘇廻成輪