《24時間》徒然草-46

日本のある場所のある地点の空間を、各々の理由で通る人にインタビューして、その人の生き様がその僅かな語りから伺い知るという、正に人生がその一瞬の切り口に現われるドラマが好きで良く見る。
食堂だったり、お店だったり、バスターミナルや駅だったり、様々な人が往き交う場所を定点で掴まえては、話しかけて、今ここを通る訳をきく。人生の岐路に居るとか、旅立ちや、挫折の帰京だったり、人との出会いと別れがそこにある。
それをみる度に、人生はシナリオのないドラマだと思う。
そして、皆人は自分を生きていることを痛感する。私は私を72時間は愚か、24時間生きているだろうかという想いが沸き上がってくる。

仕事は週休2日で、後の5日間はセラピーに集中すると、「私」と「分析者」の区切りをつけた、二重生活を標榜し、その実現を目指して28年間努力して来たが、一度も叶った事がない。
48時間の自分だけの時間の僅か、この仕事は幸か不幸か、電話とメールで、いつでもどこでも24時間緊急に備えて待機している形式になってしまう。
人道的に、休みだからと言って、先延ばしには出来ない。
この時点で分析家には、「私の時間」は既に無いのである。その事を覚悟しなければ、この仕事に就くことは出来ないとは承知していても、私だけの無意味な時間を持ちたいと思う。
仕事は意味と目的の塊で、一秒たりとも思考が止まることはない。
記憶している臨床データと理論の総てを駆使して分析する。

囲碁や将棋のように、この先の成り行きをクライエントの過去と今のあらゆる情報から推論し、今何を為すべきか、心をどう書き換えるか、どう言えば伝わるのか等々、あらゆる伝達と理解に向けて言葉を選び、文章化して、それを言葉にする。
その分析と文章作成を分単位で行う。これを一日何人も何時間も休憩なしで続ける。
思考を止めることは無い。それで頭が疲れるとか、体の疲労感は全くない。
何故なら考えてしている訳ではなく、ほぼ自動的に答えは出てくるからだ。私は頭の中に浮かんでくる文字を、唯発音しているだけだから。全く思考の痕跡は残らない。故に疲れない。
唯、文字が浮かんで来ない無意味を味わいたいのだ。せめて24時間。
精神分析家 蘇廻成輪