《散華》徒然草-41


私は高校時代、唯一の友人を『貴様』と呼んでいた。
今頃はそんな呼び方をしているのを耳にすることはなくなったが、当時我々はそう呼び合っていた。しかし、善く善く憶い出すと、彼は私を「○○君」と言っていた様な気がする。私だけが、貴様と言っていたのかもしれない。
唯一人の友人は私にとって貴い存在なのだ。何故なら唯一の話し相手であり、理解者だったから。彼は私とは正反対の正義・実直・真面目・穏やかで、何より優しく思いやりのある人間だった。決して怒ることなく、いつもニコニコ笑顔を見せていた。
後年、結婚し、子供をもうけ、幸せな家庭をつくった。然もありなんといった人生を送っている。彼はクリスチャンになり、私は平凡な市井の人となり、各々の人生を生きている。後は黙って散っていくだけだ。桜の花のあの潔さを見習って去るしかない。

日本人の死生観は、切腹や斬首に象徴されるように一思いに、腹を切り、首を落とす潔さの美学は、散り行く花びらに投影され、満開の花の一瞬を刹那として把え、散っていく花に自らを擬えて花を見ているのである。
消え去った花は、再度一年後には同じ時季に復活したかのように、満開の花を咲かせて誇らしそうに風に笑う。そして又散る。正に生と死、死と生の再生を繰り返し、人の死生観を笑うかのように悠久の時のなかで生命の永遠性を語っている。
その声は人の心に届いているだろうか。花の声なき声に耳を傾けると、「寂」の文字が飛んできた。そしてヒラヒラと散りゆく花びらが「寂滅」といっているのが聞こえた気がした。
精神分析家 蘇廻成輪