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ブログ  精神分析家の徒然草 

《それ》徒然草-40

 

桜が散る頃になると憶い出す言葉がある。それは卒業である。私はそれを知らない。


何故なら中退したからである。一つの課題の区切りとして、証書や修了書、それに卒業アルバムがあるが、私の手許にはそれら一つも無い。それは青春の区切りがない事を顕わしている。
それが無い事はアイデンティティーを持っていない所在なさと同時に、終りが来てない事の希望でもある。未だに青春に区切りをつける事なく、晩年を迎えてしまった。だから今でも勉強していられるのかもしれない。

ラカンの本と睨めっこ始めて三十数年、未だに向き合い、読み続けていて、卒業していない。私の辞書には「区切り」はないのかもしれない。それも卒業していないからだ。すると入学もないことになる。

私はラカンを卒業して、次の何かに向かい、新たな門を叩き、その新世界の学問に身を投じることが出来ないことになる。ラカンを超えてその先にあるものとは何か、を考えることがない。が、しかしその世界に触れたことはある。それは文字には出来ない。


何故なら、五知覚と知を超えた別次元の感覚だから。人はそれを四次元とか「霊の世界」とか言うが、私には一つの事実としかいいようがない。確かに眼に見えず、肌で触れることも音もなく、唯そこに在るのである。その存在と私は対話している。それが出来るのは、単に話が合うからである。

真理を追究する者として。追い求めているものは、「人間とは」、「男とは、女とは」そして「父とは」何かを問いかけ、それについて語り合うのである。それが出来るのは彼らしか居なくなった。既に地上の人と語り合う機会を失って久しい。

ただクライエント在るのみになってしまった今、私は彼らと話し合うしかなくなった。
それが唯一の私の至福の時である。

今日もそれについて対話する。

 

精神分析家 蘇廻成輪

 

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