Blog

精神分析者の徒然草  ブログ 

心理カウンセラーの徒然草-34《飛梅》

私は今まで生きてきて、賞を頂いたことがない。
小学校の絵や習字や工作などで、出展しても出品しても一度も評価された事も賞状をもらったことがない。剰え資格も運転免許証以外、社会的格付けはない。言っておくが運転免許証は許可証であって資格ではないのは承知で、これしかないと言っているだけである。

要は、何の資格も持ってない。況んや、分析家の資格もない。
自分で自らを分析家と規定したのだ。国家資格にそれらしい公認心理師の規定が産まれたが、それも勿論ない。
ラカンの言葉通り、分析家を規定するのは自らである、という言葉に従い、
私は私を「integrator」と規定し、今も仕事をしている。

それはとまれ、賞には全く無縁の身である私は、自らを賞賛し、冠を与えるのも自らでするしかなくなった。これを「自画自賛」という。
私はいつもこれを講座の最中にしている。「この説明は判り易く、it's perfect」というと、受講生が笑う。
私のそれはいつも受講生の失笑をかうのがおちである。誰一人その言葉に頷き、拍手してくれる人はいない。自分だけが、その凄さを判っているだけ。この分裂的構造は誰にも理解されずに終わるだろう。

そんな事はどうでもいいのだが、世間からの賞の最高位は文化勲章と国民栄誉賞であろう。そして人間国宝である。
人間そのものが国宝である、とは人間離れしている。ある仏師と話した時、唯の木片でも千年そのままの形でのこれば国宝になると言っていた。人間もミイラになって千年生き延びれば、それ自体国宝なのだ。虎は死して皮を留め、人は死して名を残す、と言うが、名をのこした処で、それが何なのだろう。


菅原道真のように、神に祀られる人もいる。
国宝どころか神になってしまったのだ。それは本人の意思とは全く関係無く。道真はそれを何と思うのだろう。私には全く関係無いことだと言う声がきこえる。彼はきっと家族の許に帰りたかっただけなのである。それが飛梅の故事を生んだのであろう。
彼の心にあったのは、神になりたいのでも、国民栄誉賞でも、国宝でもなく、唯家族と共に生きる、市井の人の平凡なしあわせを想う心であったと、私は思う。

何故なら、真理と共に生きていると言って、私は神になったと言って失笑をかう私が想うことは、それだから。

SHAREシェアする

一覧

HOME> >心理カウンセラーの徒然草-34《飛梅》