《風を運ぶ》徒然草-32

いつも思うことだが、駅伝に限らず、マラソンも何故人は意味も目的もなく走るのだろうか。そして、それをTV中継し、放送する意義も観戦する意味も、全く判らない。1日は実業団に始まり、2日は大学駅伝、そして、一年中、何処かで、学生や社会人が、そして一般市民マラソンと、日本中、人々が競って走る。

唯、カロリーを消耗しているだけで、何の目的も仕事も役割もなく、唯走ることに、無意味と無駄をみる。個人として走る事には意義は無い。健康や体力づくり、ダイエット等々、その人成りに意味はあるだろうが。
しかし、競技としては何も無い。唯一つ言えるのは、その大いなる無意味と無駄にこそ意味がある。
それは、その行為は、社会製産的でも、人道的でも、政治的でも、文化的でもない、その唯人間・生物であるが故に走るという行為は、とても純粋にみえる。
何故なら、それは社会・文化の意味の汚染から切り離されているからである。そのレースの結果に順位がつけられ、価値と名誉をさずけても、走ることの無意味さは依然として残る。その無意味さが美しいのである。
だから人はその単純な走るという行為を、見続けてしまうのである。
無駄で無意味なことが出来なくなっている現代のホモサピエンスは、悲しいかな、意味の病に犯されている。成果主義という、癌に侵されている。あの純粋な無意味が、私達の意味の病を和らげ、癒してくれるのである。

走っている選手にいつも呼びかけている。「せめて手紙か何かもって届けるために走ってくれないか、飛脚のように」と叫んでいる。そして今年もTVのスイッチを入れたら、TVのナレーションで「駅伝は、風を運んで走る」と言っていた。
私の叫びに応えたかのような、キャッチコピーだった。思わず、それは見えないではないか、見えるものを運べ! と叫んでいた。
何と虚しい叫びだろう。
私は静かに席を立って、散歩に出た。
精神分析家 蘇廻成輪