《深夜の初詣》徒然草-29

その白い半紙に包まれた掌大の包みが、いくつあるのか必ず数え、既にそれがあれば、一番のりできなかったことが判り、来年こそ一番にお参りしようと、両親は言っていたが、遂に一度もそれを成し遂げた事はなかった。
そのことが、何のご利益につながるのか語ることもなく、それに拘っている風もなかった。意味のない団子の憶い出であるが、妙に記憶に在る。

お参りが済むと、次に元お寺の跡地に残った石の仏像を参り、そして、屋敷内にある小さな祠に団子を置いて、初詣参りは終る。大晦日から新年にかけての深夜の徜徉は年中行事で、唯一、深夜まで起きていることが許される、特別な日だった。
新年を迎える新たな気分よりも、深夜まで眠らずにいて、TVを観ていられることが、大人になったような、妙な高揚感が子供心に新鮮だった。
そんな家族の年中行事も、小学校時代で終りを告げた。
中学以降、紅白歌合戦は観なくなり、独り自分の部屋で年を越した。母屋から離れた所に納屋兼居住の二階建ての離れは、誰にも邪魔されない、私だけの個の空間だった。その静寂は私の空想を何処までも拡げ、未知なものへの興味と、生とは、死とは、愛とは等々、思う存分思索し、哲学し、煩悶懊悩し、『若きウェルテルの悩み』を読み耽った。
私はその無限の想像空間の中心の詩人になり、哲学者になり、ヒーローになり、悲劇の主人公になり、恋をし、失恋し、野心を抱き、自分は天才ではないかと独り悦に入り、雄叫びを上げていた。どんな人間にもなれる万能感に酔い痴れていた。

そんな夢の様な時は長く続く訳がない。直ぐさま、高校受験の準備をしなければならなくなり、あれほど憧れていた深夜に起きていることが普通になり、深夜放送がいつしか、私の友になっていた。そして、唯の受験生になり、万能感も夢想もいつしか雲散霧消し、高校合格だけを目指す、現実主義者に成り下がっていた。
甘美でロマネスクな心を失って久しいが、果して私はそれを取り戻せたのだろうか。
人生で一等大切なものを失ってしまったような気がする。
精神分析家 蘇廻成輪