《天空の座禅》徒然草-22

このコロナ禍で、こんなに朝早くから沖縄はないだろうと思っていた処、自分と同じ様な人が居るんだと語った知人の話である。彼のフライトの目的は、マイ・レージ稼ぎの、唯の荷物の様な乗客人だった。これを一日二往復する。
私は、それは大変だね、と言ったら「いや唯、寝て食ってるだけだから、楽なもんです」と言われた。

このポイント稼ぎフライトを仲間うちでは「修行」と言うらしい。そして晴れて上のランクに上がれた人を「解脱した」と言うのだそうだ。
私は呆れた。開いた口が塞がらないとはこの事で、唯の金持ちの暇人ができる、遊びだと言わざるを得ないから。そして、それが解脱するためとは、聖者がきいて、特に空海がきいたら、何と言うか。
本当の修行と解脱の意味を説くだろうか。
そんな事はどうでもいいが、彼らのその尊い行為を云々する気も批判もする気はないが、その一見無為に見える行為が、彼らの主体にとっては、とても価値あることをしている充実感に思えていることを想像すると、確かにそれは修業かもしれない。

人間の行為には3つある。
一つは、当たり前のことをする。二つ目は、したい事をする。三つ目はしたくはないが、やるべき事をする。マイ・レージ稼ぎの彼らは、三つ目のしたくはないが、しなければポイントが増えないから、仕方なしに沖縄まで、唯飛行機に乗って、じっと着陸まで喰って寝て、又寝て喰ってを繰り返しするしかない、それを黙々と行う、まるで飛行機にのった座禅の様なものだ。
矢張り、彼らの言う「修行」は正しい。とても私には出来ないことだ。
そう考えると、人は貧しかろうが、富に恵まれ様が、人は等しく苦に耐えながら、修行しているものだと知った。
人は苦に対して平等である。神は公平にして平等に、それぞれの人に試練を与えている。
解脱した時の境地は、一体どんなものだろうか。彼はどんな悟りを開くのか。現実的にはVIP待遇の王様気分であろう。その場所に行く為に、彼らは天空の座禅をしたのだ。では一般庶民は、貧しさの苦行に耐えた先にある境地とは何か。
それは無一物無尽蔵の至福という心の富である。
精神分析家 蘇廻成輪