《玉子かけごはん》徒然草-20

私は小学四年までに「一生分の玉子かけごはんを食べてしまった。」のである。以後、今も尚、旅館の朝食に出る生玉子は、いつも目玉焼きかスクランブルにしてもらう、わがままな客になってしまった。本当に今後も玉子かけごはんを食べることはない。

一生分の苦労したとか、勉強したとか、遊んだとか、何かしら自分で区切りをつけてしまっている事がある。
唯一つ区切れない事がある。それは幸せな時を迎えている時である。幸せを中断したいと思う人はいないであろう。
しかし、幸せな蜜月は長く続かないもので、否が応でも日常に戻される。どんなにファナティックな時も、エクスタシーも、瞬く間に消えていく。それなのに、逆境や苦境、不遇な下積時代や、日の当たらない冷遇の時季は長く続き、いつ晴れるとも、判らず、光差すトンネルの出口は見えない時がある。
それでもじっと耐えて、雪の下の草花のように春の来ることを待つ。それを忍耐というが、それを支えているのは、春が来て、陽光を浴びるシーンを想い浮かべる想像力ではなく、雪の重さと冷たさとに自らを一体化させている甘受である。今ある我が身の境遇を是として、それと一体化し共に生きていくことが、人の一生である。これにやり尽くしたということは無い。玉子かけご飯のように、一生分の決まりはないのである。

人生を区切るのは、やり尽くした時である。あるいは目標を達成してしまった時である。新たな目標を、新たな目的で構築できた時、人はそれをスタートラインとして、再度人生を生きることができる。
苦労は買ってでもしろ、とよく親に言われたが、苦労が人を育て、幸せにすると知っていたから、そう言ったのだろうか。今の私は、その言葉を子孫に言うことはない。言うとすれば、「矻矻と自分の成すべき事をする」それが、人生で最も基本的生き方であると言うであろう。
努力、勤勉、真面目、それも必要であるが、矻矻と生きる。それが百姓魂である。
それを私は両親から学んだ。
精神分析家 蘇廻成輪