《絶対はない》徒然草-17

自分の人生にこれだけはないだろうと決めていることが、人には一つや二つあるだろう。
私はNHKの大河ドラマと朝ドラは、全く見る気がおきずに、未だに一作も観ていない。特に理由なく、多分歴史に残る武将に興味がないからである。
それと韓国ドラマだけは、一生観ることはないと、これは決めていた。その理由も特になく、唯、観ないと決めていた。
そんなある日、朝食がすみ、何気なく、TVのチャンネルを回していたら、「ホジュン・伝説の心医」のタイトル文字が目に入った。
それは韓国の歴史大河ドラマだった。時代1600年頃らしい。
私を捉えたのは「心医」の文字だった。え? そんな昔に、心の医者、セラピストが居たのかと勝手に思い込んだが、いや居る筈がないと否定し、チャンネルを回した。
日常生活のルーティンはさほど変わりなく、次の朝も、同じ頃、朝食の後コーヒーを飲みながら、何気なくTVを観ていると、又しても「ホジュン・伝説の心医」の文字が目に入り、何だろうと思うが、観ようとはしなかった。そんな事が数日続いた。流石に気になり、到頭観てしまった。

私は根拠のない主義に反して観てしまう後ろめたさもなく、TVに観入ってしまっていた。一話観ただけで、ホジュンは私だと思った。そう思ったら毎日欠かさず観なければならなくなり、遂に最終話まで観た。
その最期は、静かだが、壮絶な死だった。患者の脈を診ながら、彼は事切れた。医は仁術を実践し、全うした人間である。
人生も波瀾万丈であったが、それ以上に医者としてその使命に忠実に生き切った姿は、私の自我理想を体現した人だった。とても彼の足許にも及ばない自分であることは、百も承知しているが、目標の人として、晩年の人生を生きる意味が、彼の生き様によって見せられた気がして、怠惰な日々の繰り返しに喝! が入り、目が覚めた。
今でもその衝激は残っている。その想いを忘れないようにと、日々心に云いきかせているが、人は悲しいもので、いつしかその想いも薄れ遂には忘れてしまうものだが、ホジュンだけは、私のセラピストの鑑として刻み込んだ。

私の根拠のない心情に従っていたなら、永遠にホジュンと出逢うことはなかったであろう。この世に絶対はないが、人の心の中の絶対として決めたことは、全く持つ意味がなく、むしろ害である。この無意味な絶対は、単なる「偏見」であることは、言うまでもない。
中庸こそ心が立つべき場所なのである。
精神分析家 蘇廻成輪