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分析者の徒然草  ブログ 

《空と海》徒然草-14

 

海の無い県に産まれたからなのか、何故か海に惹かれる。その空と海だけの構図に惹かれる。
統一感のない自然と人工物の組み合わせの日常風景は、心を無機質にしてしまう。
純粋な空と海だけの景色は、色も単調で、眼が休まる。
そして心もしばしの休息を得る。

現代生活は、人工の光と音の造形の不連続性に、心は疲れる。それをヨーロッパ人は知っていたのか、特にフランス人は、都市造りをすべてシンメトリー(対称)にした。



通りを境に左右が対称で、建物は同じ高さで、庭はシンメトリーの幾何学模様で、最初はいいが、数日もパリに居ると、余りの統一感と論理的、数学的な理性的街に、辟易してしまう。

日本の庭園はヨーロッパのそれと正反対に、そのシンメトリーを全く排除した、不連続とアンバランスの構成美である。言うに及ばず、京都竜安寺の石庭はその代表的なものである。その背景の自然の山や木までも包含し、庭の区切りすら、自己矛盾的に溶けこましてしまう。
庭が個でありながら、全体の一部であり、その一部でありながら、完全な個である。



この二律背反の具現化こそ、日本の美学であり、日本人の思考・論理なのである。民族意識にもそれが反映し、あの悲惨な第二次世界大戦の折に、国が掲げた「一億玉砕」思想に顕現された。

二律背反は到る処にある。本音と建前、表と裏、儀礼と本質、そして、伊勢神宮の20年に一度の遷宮。
それは、本宮はオリジナルであり、コピーなのである。こんな文化は世界中何処にもない。文化と技術の伝承のために、20年に一度、壊され、又新しく場所を変えて、そっくりそのまま建てられるのである。

私という自己もこの矛盾を孕んでいる。社会という全体の一員であると同時に、誰も私の代りができない唯一絶対の個人である。個人を主張すれば、社会に所属できず、社会に従属すれば個を失う。私が私自身であろうとすると、この存在論的二律背反に出会ってしまう。

これを回避する術は、引きこもりしかない。或いは、出家するしかない。この世に聖も俗もないが、あるのは唯一、全体と個である。敢えてこの対立を換言すれば、前者が俗で、個が聖になる。
そして社会は海で、私は空になる。

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